リヒャルト・フォークト氏の奇妙な戦闘機の数々~BV141

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戦争は良くも悪くも「発明の母」と形容される事も多いが、これは実際の戦闘においてなんとか敵国を上回る兵器を開発する事で、戦術的な成功を収める。
引いては戦争そのものを勝利に自国を導きたいとの思想が、国家の総力戦であればあるほど強くなる事を示している故ではないかと思う。

兵器開発の傾向は人類の歴史上で最大の国家総力戦となった第二次政界大戦においては殊に顕著であり、実用化され活躍した以外にも実に多くの兵器開発が各国で繰り広げられた。
今回はそんな第二次世界大戦時のナチス・ドイツにおいて、ひときわ異才を放った航空機設計者のリヒャルト・フォークト氏と彼が手掛けた機体について紹介してみたいと思う。

目次

ブローム・ウント・フォス社

ブローム・ウント・フォス社は現在2024年もドイツに存在する企業で、現在は造船業と石油採掘装置の製造を手掛けており、前者はドイツ海軍及び輸出用のフリゲート艦をメインに、民間用の船舶も手掛けている。

ブローム・ウント・フォス社は自国向けにはブレーメン級、ブランデンブルク級、ザクセン級のフリゲート艦を手掛ける。輸出用のMEKO型フリゲート艦は、アルゼンチン、ナイジェリア、ポルトガル、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの各国海軍に採用。西側諸国でも有数の同クラスの輸出元として商業的な成功も収めている。

第二次世界大戦時のブローム・ウント・フォス社は、重巡洋艦の「アドミラル・ヒッパー」や戦艦「ビスマルク」と言ったドイツ海軍で数少ない大型の水上戦闘艦を手掛けており、その点で知名度も高い。
そんな歴史を持つブローム・ウント・フォス社だが、ちょうどナチス・ドイツが政権を担った1933年から1945年まではその傘下にハンブルガー航空機製造社を置く。そこで主任設計技師を任じられたのがリヒャルト・フォークト氏、その人であった。

稀有な航空機の設計技師 リヒャルト・フォークト氏

リヒャルト・フォークト氏は当時の帝政ドイツにおいて、その構成国のひつつであったヴュルテンベルク王国のシュヴェービッシュ・グミュントに生を受け、ごく普通の高校に通うがその時期にドイツ航空界の重鎮であるエルンスト・ハインケル氏との知見を得た。
この影響でリヒャルト・フォークト氏は自身が18歳を迎えた1912年に自作の航空機を制作、恩師とも言えるエルンスト・ハインケル氏の前でテスト飛行を試みたが、残念ながらこの試みは成功には至らなかった。

その後リヒャルト・フォークト氏は無事高校を卒業、エンジン企業に職を得たが1年で退職、1914年に始まった第一次世界大戦にドイツ軍人として従軍するも負傷を負い、後方勤務となった事で志願して航空機の操縦を習得する。
リヒャルト・フォークト氏は第一次世界大戦の渦中の1916年8月に軍を除隊後、ツェッペリン飛行船社に入り、そこで航空技術者のクラウディウス・ドルニエ氏と邂逅、自らも航空機設計者としての道に踏み出した。

1918年に第一次世界大戦が終結を迎えた後、リヒャルト・フォークト氏はシュトゥットガルトの工科大学に入学、1922年まで同大学の研究室においてアレクサンダー・バウマン氏の助手となり、最初の特許と博士の学位を手にし航空機設計者となった。

晴れて航空機設計者となったリヒャルト・フォークト氏は、先ずイタリア、そして1923年から1933年までの10年間、日本の川崎造船所飛行機部に派遣されそこで主任設計技師の地位を得て、日本の航空機製造にも貢献を果たす。
そして運命の1939年9月、ナチス・ドイツが政権の座に就くと日本にいたリヒャルト・フォークト氏にも本国への召喚が掛かり、ブローム・ウント・フォス社の航空機部門の筆頭の技術者としてのオファーを受け母国へと戻った。

こうしてリヒャルト・フォークト氏は稀有な航空機を設計する技術者として、今の世にもその名と足跡を遺す運命を辿る事となったと言って良いだろう。

BV141偵察機

ブローム・ウント・フォス社の航空機部門の筆頭の技術者としてドイツ本国へと戻ったリヒャルト・フォークト氏は同社で先ずHa136単葉練習機、そしてHa137急降下爆撃機の開発に従事するが、それらは商業的な成功は得られなかった。
これらHa136単葉練習機、Ha137急降下爆撃機は燃料タンクを内蔵した翼桁を備え、片持ち形式の主翼を形成する等、先進的な技術が盛り込まれてはおり、その意味ではその後のリヒャルト・フォークト氏の機体の特徴の片鱗が感じられるものでもあろう。

そしてその後のBV141偵察機の開発によって、リヒャルト・フォークト氏の航空機設計者としての名は著名なものとなったが、それは同機が航空機としては非常に稀有な左右非対称とう言うインパクトのある外観を備えていた故だろう。
BV141偵察機は通常の航空機のように胴体部の中央に操縦席を配置するレイアウトではなく、主翼の右側にそれが配置されており、機体全体での重量バランスを考慮して右側の水平尾翼がないと言う特異なデザインに仕上げられていた。
従来の航空機設計の定石から考えれば、こうした左右非対称なBV141偵察機のデザインは最も航空機で重要な問題となる飛行時の安定性の確保に難があると思われたが、そうした意に反して同機の飛行時の挙動は非常に安定していたとされている。

但しBV141偵察機は同機が搭載していた機関部・BMW 132Nの慢性的な出力不足、後に換装したBMW801でも信頼性に難を抱えた為、競合のフォッケウルフFw189に選考で敗れ、試作機を含め総数で20機しか製造されなかった。
BV141偵察機が主翼の右側に操縦性を配置したのは、デザイン的に奇をてらった訳ではなく、依頼元のドイツ空軍がその仕様に良好な視界を求めた事への解答であり、その点では要求を満たしていたと評されている。

BV138偵察機

Ministry of Information photograph, Public domain, via Wikimedia Commons

リヒャルト・フォークト氏が手掛けたドイツ空軍用の航空機の中で、最も商業的に成功を収めた機体はBV138偵察機ではなっいかと思われ、長距離用の偵察機として同機は1938年から1943年迄の6年間で合計で297機が生産された。
BV138偵察機は水上からの離着陸が可能な飛行艇であり、元はBMW社製の機関部を2基搭載する仕様であったが、同機関部の開発遅延からユンカース社製のユモ205を3基搭載する型式に改められ、最初のA型、次のB型を経て最終のC型に行き着いた。

1941年に完成を見たC型は、A型・B型の機体の各部を強化して強度を向上させ、ドイツ空軍の長距離偵察機としての主力の飛行艇の座を獲得、総数で227機が製造され、数多くの実戦にも投入が行われた。

それは1940年のノルウェーとデンマークに対する侵攻作戦であるウェー―ザー演習作戦を皮切りに、ノルウェーの沖合や大西洋におけるUボートと共同での連合軍船団への攻撃に使用され、攻撃のみならず後方支援任務にも投入された。
BV138偵察機は双胴形状を採用した機体であったが、兵装は20mm機関砲2基、13mm機関銃2丁、150 kg爆弾4発を搭載可能で、偵察から攻撃まで多様な任務に従事する事ができた事が成功に繋がったと思われる。

BV238飛行艇

BV238は1944年3月に初飛行を実施した飛行的であるが、その時点で第二次世界大戦に投入された航空機の中でも最も重量のある機体であり、枢軸国側から見ると最終的にも最大であった事が記録に残されている。

但し完成したBV238飛行艇は僅かに1機と言う貴重な機体で、ダイムラー・ベンツ社製のDB603倒立V型12気筒の機関部を主翼化下に6基備えていたが、こ1機も1944年9月にシャール湖上で連合国戦闘機の機銃掃射を受けて破壊された。

因みに第二次世界大戦時に生産された最大の航空機は、アメリカのヒューズ・エアクラフト社製のH-4ハーキュリーズであると語られる事が多いが、同機の初飛行は1947年と戦後であり、その意味ではBV238飛行艇は世界最大であったと言っても間違いではないと思われる。

第二次世界大戦後のリヒャルト・フォークト氏

第二次世界大戦の終結後にリヒャルト・フォークト氏は、アメリカ空軍からの招聘を受けて渡米、1947年から1954年まで同軍の研究所で民間のスタッフとして業務に従事、1979年に84歳で死去するまでアメリカに住んだ。
アメリカ空軍の研究所を経た後、1960年迄は航空物理開発社の主任設計技師を務め、その後は1960年ら1966年迄ボーイング社のスタッフとして働き、仕事としては最後まで航空機に関わり続けた。

リヒャルト・フォークト氏と言えば前述した非対称なデザインのBV141偵察機が余りも有名だが、他にも同様の非対称機のBV111やBV163を手掛けており、どこか航空機デザインの常識を覆したい言う想いを抱いていたのかも知れない。

featured image:Scholz, Public domain, via Wikimedia Commons

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