日本全国100か所以上に素晴らしい作品を残した彫工、左甚五郎。
今回は300年以上を生きた、彼の伝説を掘り下げていきます。
大工仲間に右腕を切り落とされ「左」と名乗った
左甚五郎は日本が誇る伝説の彫工。生まれは文禄3年(1594年)の播磨国明石とされ、父は足利家の家臣と伝わっています。姓の由来には諸説あり、大工仲間に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされた、と講談では語られました。
時の天下人が甚五郎の建てた多武峯十三塔に感動し、「お前の右に出る者はない。今後は左と号すべし」と命じた説も有力です。
江戸城の隠し通路掘削に携わさった際、口封じとして差し向けられた刺客を返り討ちにした逸話も無視できません。幕府の暗殺者を倒すなんて、ただ者ではありませんよね。
彫刻に命を宿す芸術家の真骨頂
甚五郎の彫刻はその見事な出来栄えから「生きている」と称されます。その代表例が埼玉県比企郡安楽寺の野荒らしの虎や同郡慈光寺の夜荒らしの名馬、米倉寺の阿吽の龍など。日光東照宮の三猿や眠り猫も甚五郎の作品です。
甚五郎の彫刻は命を宿し、たびたび欄間から抜け出すと言われていました。野荒らしの虎は夜な夜な田畑を駆け、阿吽の龍は葛川に出かけ、駿馬は蹄の音も高らかに走り回ったと言います。虎の場合は口に血、龍の場合は鱗に泥が付いていたことから悪さを見破られ、それぞれ目や尾に釘を打たれて封じ込められてしまいました。
法蔵院阿弥陀寺の山門が冠する龍の彫り物に至っては、時化の夜に実体を伴って海を渡り、対岸の安房国(現在の房総半島)まで遊びに行っていたとか。これに困った地元の人々が龍の左目に五寸釘を打ち込んだ所、夜遊びはぱったり止んだそうです。
少々罰当たりな気もしますが、甚五郎の作品に「目打ち」の儀式は付き物でした。画竜点睛を欠かなければ、大海原に出ていったきり帰ってこないと思われたのでしょうか。
甚五郎自身も自作の夜遊びが後ろめたかったのか、知恩院御影堂の軒裏に魔除け代わりの「忘れ傘」を仕込んでいます。
左甚五郎は実在したのか?
甚五郎の活動期間は安土桃山時代から江戸時代後期に掛けて、300年以上に及びます。
実在の人物だとしたら、果心居士並の長寿であると言わざるを得ません。
故に左甚五郎は全国各地で腕をふるっていた飛騨の匠の通称か、彫工の職能集団の総称と見られています。
もし甚五郎が不老不死の超人なら、彼が心血を注いだ作品が、命を宿して出歩くのも頷けますよね。
そんなミステリアスなキャラクターが受けたのか、落語・講談・浪曲にとどまらず、国民的人気ドラマ『水戸黄門』にも複数回に亘って登場しています。興味がある方はぜひご覧ください。


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