大学二年生の頃、私は東京郊外のアパートで一人暮らしをしていました。
築四十年ほどの四階建てで、私の部屋は最上階にありました。エレベーターはなく、建物全体もかなり古びていてボロボロ。部屋も狭いので、人によっては、なぜこんな場所を選んだのか不思議に思われるかもしれません。
それでも、このアパートには一つだけ、気に入っている点がありました。
海沿いの山の上に建っているため、窓からの眺めがとても良かったのです。
夜になると、遠くの海に浮かぶ船の灯りや海岸線に沿って並ぶ建物の明かりが、視界に広がります。
私はよく、部屋の照明を落とし、その夜景を眺めて過ごしていました。
当時の生活の中で、それは数少ない息抜きの時間でした。
視線
その日も、期末レポートの締め切りに追われていて、気がつくと時刻は深夜二時近くになっていました。
もう限界だと思い、椅子から立ち上がろうとした、そのときです。
窓の方で、何かが動いたような気配を感じました。
反射的に視線を向けると、暗闇の中、白い服を着た女が窓の外からこちらを覗いています。
ここは四階、ベランダはなく、窓の外は垂直の壁だけで、人が立てるような場所ではありません。
あまりの恐ろしさに叫ぼうとしましたが、声が出ません。
次の瞬間、椅子ごと後ろに倒れ、床に背中を強く打ちつけました。
慌てて起き上がり、もう一度窓を見ましたが、女の姿は跡形もなく消えていたのです。
「気のせいだよね」
そう自分に言い聞かせ、その夜は無理やり布団に入りました。
ですが、それで終わりではなかったのです。
それから毎晩、ほぼ同じ時間になると、あの女は必ず現れました。
見るたびに、細かな印象は少し違っていたように思えるのですが、共通していたのは、濡れたように垂れた長い髪と、古い白いワンピース、そして歪んで裂けたように見える口元。
女は窓の外でじっとこちらを見ていました。
何も言わず、身動きもせず、ただ視線を逸らさずに。
怖いはずなのに、私は毎晩、必ずカーテンを開けてしまいました。
見なければ楽になれると分かっているのに、「いないこと」を確認しないと、どうしても眠ることができないようになっていたのです。
恐怖の日々
それから、眠れる日がほとんどなくなり、講義にも出られず、食事も喉を通らなくなっていきました。
不安に耐えきれず、警察に相談したこともあります。
ですが、四階の窓の外に女が立っているという話は、真剣に受け取ってもらえません。
「精神的なストレスによる幻覚でしょう」
淡々と、そう言われただけでした。
管理人にも相談しましたが、
「そんな話は聞いたことがありません」
と、それ以上取り合ってはもらえません。
誰も信じてくれないと悟った時、恐怖より先に、心細さを感じました。
もしかすると、本当におかしくなっているのは自分の方なのかもしれない。
そう思う一方で、夜になると、私は必ず窓を見ていました。
見なければいい。
そう頭では分かっているのに、見ずにいられませんでした。
あれは、いる。
どうしても、そう感じてしまうのです。
もしかするとこの場所になにかがあるのではないかと、パソコンで過去のニュースを調べました。
すると、このアパートが建つ前、ここには古い木造住宅があり、二十年ほど前に火事で全焼したという記事を見つけました。
亡くなったのは、女性が一人。
身元は分からず、焼死体として発見されたと書かれていました。
これ以上、部屋にいることができないと思い、大学の友人に連絡し、しばらく泊めてもらうことにしたのです。
もう、あの部屋には戻らない。
そのときは、本気でそう思っていました。
あれの正体
荷物をまとめているうちに、気がつくと、あの時間が近づいていました。
そのときです。
いつもとは違う異変に気づきました・・・かすかに、音が聞こえたのです。
私は虫が入ってくるのが嫌で、夜は必ず窓を閉めているのですが、その日は荷造りに気を取られていて、窓を開けたまま。
このままだと、あれが入ってきてしまう。
そう思い、恐る恐る窓に近づき、閉めようとした瞬間。
突然、目の前がぱっと明るくなり、同時に小さな悲鳴のような声が聞こえました。
反射的に私は悲鳴を上げて、その場から動けなくなってしまい、体が硬直し、ただ立ち尽くしてしまうばかり。
すると、隣の部屋の窓が開き、眠たそうな様子の男性が、頭をかきながら顔を出し、
「悲鳴が聞こえましたが、どうしました?」
と声をかけてきます。
その姿を見て、私は相手が人間だというだけで、少しだけ安心してしまいました。
震える声で、これまでに起きたことを一通り話すと、その人は、申し訳なさそうにこう言うのです。
「僕、迷惑をかけてしまったのかもしれません」
仕事の都合で帰宅が夜中になること。
夜景が好きで、カーテンを付けていないこと。
ホラー作品を見るのが趣味で、音を出すと迷惑になるため、いつも小さな音で再生していること。
そして、そのまま寝落ちしてしまうこともある、ということ。
さらに、このアパートは構造が少し変わっていて、隣り合う部屋同士がわずかに斜めに配置されている。
そのせいで、条件が重なると隣室の光が窓に映り込むことがあるのではないか?と言うのです。
私は、半信半疑のまま窓を閉め、部屋の電気を消すと、ガラスの向こうにうっすらと光が見えます。
確かに隣の部屋から漏れてくるテレビの明かりの反射しているようです。
そこにはよく見ると、男性が話していた、有名なシリーズもののホラードラマの一場面が映し出されています。
しばらくすると怪異の出現シーンとなり、こちらを覗き込むように、白い服、歪んだ口元、不自然に近い距離感で「女の顔」が浮かびあがったのです。
私は、その場にへたり込みました。
赤っ恥
いままで私が体験していたものは、幽霊でも、怪異でもありませんでした。
その事実に気づいた瞬間、強烈な羞恥心が胸いっぱいに込み上げてきたのを覚えています。
思い込みというものは、ここまで人を追い詰めるのだと、身をもって知りました。
その後、私は例のアパートを引き払いました。
理由は、言うまでもありません。
引っ越しの最中、たまたま隣の部屋の男性と顔を合わせたのですが、彼は私を見るなり、どこか申し訳なさそうに、気まずそうに小さく頭を下げてきます。
友人にすべてを打ち明けると、事情を聞き終えたあと、口の端をひくひくさせながらコーヒーを奢ってくれました。
笑うのを、必死で我慢していたのだと思います。
思い出すと、今でも恥ずかしさで顔が熱くなります。
※画像はイメージです。


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