企業による統治自治、それは可能なのか?思いを巡らせてみます

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

現代社会で「統治」や「自治」と言えば、「国権」を持つ「国」という答えが最もシンプルな答えでしょう。
ただ、同時にそんな「現実」が、真に良い「統治」や「自治」となっているのか、という問い掛けに対して疑問が呈され続けているのもまた事実。現代社会はその疑問と回答に向き合い、それに伴う修正を無限に繰り返す中で疲弊し続けているという状況なのかもしれません。

そんな疑問に対し、抜本的な「代案」とも言えるのが「企業による統治(自治)」。
「巨大企業(メガコーポ)」や「企業国家」等として、SFを始めとする分野で思索を重ねられてきたものです。
それらの概念は、既存の社会的枠組みや行政機構に疲弊や生き辛さを感じる現代人にとって新たなアプローチたり得るのか、エンターテインメントの世界を形作って来た「枠組み」を「ちょっと真面目に」楽しんでみたいと思います!

目次

「自治」や「統治」そもそも「国」ってなんですか?

現代社会で何処の「国」にも属さず生きるという事はほぼ不可能と言える程、人間とは不可分ながら「それが何か」という問いに答える事は存外に難しいというのが「国」という存在ではないでしょうか。
昨今では図らずも「国家承認」という言葉が世間を賑わすようになり、にわかに時事問題として浮上してきたとも言えますが、だからこそ余計にその内実が不明瞭になってしまっているというものかもしれません。

実の所、この2025年現在においてもごく原理的な話をすれば「言ったもん勝ち」(宣言的効果説)な所があり、これを背景とした「ミクロネーション(自称国家)」として「遺棄された洋上施設を勝手に占拠した例(シーランド公国)」や「家の敷地を一方的に独立国として宣言した例(ワイ公国)」といった冗談のような事例も存在します。

もっともこれらは流石に「世界の大多数の人が相手にしない例」なので、あくまで「国としての最小要件は意外と緩い」という事。「国として成立する為の絶対的基準」が明確には存在せず、最小要件を満たしつつ国家としての機能や責務を充実させて行く事で「国家としての存在を勝ち得ていく」概念というものだと考えられます。

その「最小要件」を規定したとされるのが「国家の権利義務に関するモンテビデオ条約」第一条であるとされます。

「永続的住民」、国家を構築する成員として、自主的に国籍を転じる事(手続きも無しに突然他国民になる、というような事)が出来ない「国民」を擁する事。
「明確な領域」、国際法的に領地・領海・領空と規定される場所を始めとして国民を居住させる事の出来る領域を持つ事。
「政府」、国家としての機能・権能を実行して運営する主体となる個人ないし組織。
「他国と関係を取り結ぶ能力」、国家として他国からの干渉を受けた際、それを受け取り意思表明を行い、その結果を保存・実行出来る責任主体としての能力、という四つの要件が必要であると規定されています。

それぞれケースバイケースで何処までが認められて何処までが認められないのか、という見解の衝突が起こるものではありますが、2025年現在の国際関係では原則的に「宣言的効果説」を採用する向きが強い事から「公的な宣言をした」段階で一応「国家」として存在する事になります。

その上で「他国がその存在を認めるか」という問題、「存在している」としても、他の主権国が一切それを認めなければあっても無くても大差無い存在という事になってしまい、存在を主張しようにも活躍する場も与えられないという事になり、国際法が適用される「国際法上の主体」と認められない事になります。
この段階で浮上してくるのが、先の四要件に加える「事実上の第五要件」と言える「他国からの承認」であり、それを背景とした「宣言的効果説」の対立概念とされる「創設的効果説」、「国家」とは適切な手続きを経て存在が認められるものでなければならないとする説の存在です。

「国家」とは

このように「国家」とは、現在までの歴史的背景を踏まえて考えるとしても「主体的に存立する自律的存在」であると同時に「客観的な交流の中でその存立を支持される必要がある受動的存在」でもあるという両面性のせめぎ合う存在、どちらか一方で完結出来るものではないと考えられます。

ただ、順を追って考えると「最低要件となる四要件」を満たす事で、例えば何らかの事情。
災害や他国からの攻撃等によって「自国や自国民の保護・支援」を要請する必要に迫られた場合に「守るべき自国民や自国領域は何処か」といった根本的な項目を明示する事が出来るようになります。
それを「相手に明示する」という事が「政府」の存在と共に「他国と関係を取り結ぶ能力」がある事で初めて可能になる。「守るべき主体」である「国家」の存在を明示的が示されなければ「守る対象が分からない」という「それ自体が国家存立の危機」と言える問題に直面する事となります。

つまり「モンテビデオ条約第一条」が規定する「四つの要件」は「国家」と称するものが「実存」しようとする限り必然的に備えているはずのものを列挙したと言えるもので、逆説として最低限この要件を満たしていれば「国家を称する事が出来る」と考えられます。

ただ、国家の運営において「国家存立の危機」となる状況…前述したように災害や外部からの攻撃(外患)や内乱、治安維持や法の行使を裏打ちする為に必要と考えられるのが「国家に属する制度化・組織化された武力(=軍事力)」となります。
これは本質的にはなるべく自国の管轄内で確保する事が基本と考えられますが、その国が置かれている立場や地政学的性質。例えば「バチカン市国」のような例から他国に委譲する例もあるとして、言わば「もう一つの第五要件」必ずしも必要とは言えないが、国によっては必須の条件になるもの…というような扱いになると考えられます。

特に「外敵によって存立が常に脅かされている国家」といった状況では「他国からの承認」以上に「自衛の為の戦力」が必須となるというような事が考えられます。
極論すれば「武力による統治」は「法治」よりも単純にして即効性がある為、周囲からの支援が期待出来ない状況での建国段階では「(自衛の為の)戦力」が優先されるという考え方も有り得る事になると考えられます。

以上を踏まえ、本稿では「国家」を形成する為の前提として「永続的住民」「明確な領域」「政府」「他国と関係を結ぶ能力(国家としての自立を宣言し守る能力との言い換えが考えられる)」の四要件に加えて「国を守る能力」としての「他国からの承認」もしくは「戦力」という追加要件によって「国たり得る」と定義します。

「メガコーポ」から「企業国家」まで

「国(国家)」を名乗る為のハードルが、少なくとも現代の基準で考えると意外に緩いとも見える「四つの要件」と「それらを守る能力」を最低限必要とするものとして定義付けられた事で、例え企業であろうともこれを満たしたならば「国(国家)」として存立する事も可能だと結論付けられました。

この「四つの要件」は最低要件として考えた場合、いわゆる「自称国家」や「ミクロネーション」等と呼ばれる国家というには余りにも規模の小さいケースまで含まれる事になりますが、小規模でも経済圏や地政学的影響力をもたらすものを検証する事とします。
なお、こうした規模の「企業」を経済学上の用語で「メガコーポ(megacopo:mega-corporation 巨大企業)」と呼び慣わす事があります。

この用語はポストケインズ経済学「アルフレッド・アイヒナー」による造語であり、「価値(価格)は需要と供給のバランスによって決定される」とした事に対し、20世紀になってその存在を拡大させ「価格決定力を得るに至った大企業(メガコーポ)」の存在に焦点を当てる事で新たなアプローチとしたものとされます。

ここで重要となるのが「価格決定力」。ケインズが「自由市場」において価格が「見えざる手」とも言わしめた自然発生的な「市場原理」によって決定されるとしたのに対し、アイヒナーは「企業のコスト計算が価格決定に強く作用している」とする。
「管理価格」や「コスト付加価格」であるとした古典経済学の発展系となる主張を展開したとされます。

この「価格決定の偏り」を取り上げ、独占・寡占的な市場形成メカニズムを形成出来る程の「権力」として極限まで拡大解釈したものが「企業による統治」だと言えます。
この段階で現実的な問題点となっている「価格決定の偏り」という部分を更に「極限まで拡大解釈する」必要があるという事から「企業による統治」には「現実的な実現可能性に大きな障害がある」事が示唆されたような形となってしまいましたが、ここで改めて現実における「企業が統治を行った」例を考えてみます。

歴史上の例

その例として挙げられるのが、世界史においてその名を知られる「東インド会社」。
同名の会社が幾つか存在する中で、特に日本との関係も深い「イギリス東インド会社」と「オランダ東インド会社」、そして北米大陸最大の土地所有者であった「ハドソン湾会社(HBC)」等があります。
これらはいずれも17世紀から19世紀にかけての「植民地時代」に「総督」等として支配地の統治を行ったとされます。

特に「イギリス東インド会社」は、形態こそ「会社」であったものの、イギリス(イングランド王国)の存在を背景とする「特権会社」、商業的成功とイギリスという国家の領土拡大が並存してしまうような状況となった。
結果、植民地支配の為に支配地の行政的管理や軍事力の配備、果ては軍事力の発動までも「兼任」しなければならなくなった、結果的に「企業国家」としての性質を強く帯びるようになった存在だったとされます。

とは言え「結果的に」という記述をしたように、この状況は「イギリス東インド会社」が本来の機能として目指していた「商業的成功」からすると必要に迫られたとは言え、済し崩し的な「必要経費」とでも言うべきものである。
会社としての末路も「イングランド王国へ植民地の支配権を委譲する」という「国家に吸収される」形で決着したというのが、現実での「企業による統治」の限界を示しているかもしれません。
ちなみにこの「イギリス東インド会社」の結末に役割を果たした一人とされるのが、古典経済学「メガコーポ」という用語の遠い祖先とも言えるの祖である「アダム・スミス」というのは歴史の面白さというものではないでしょうか。

そしてこの「限界」というのが「営利」を目的とする企業と、現実では多くが「国家」が担う「統治」という行為を隔てる「何か」。「イギリス東インド会社」の例で考えると、行政運営において「際限無く増える責任」であったと考えられます。

無限責任

現実問題として、今日の企業は「無限責任」から部分的に免責される方式として「有限会社」や「株式会社」という「制度」によって保護されている事から、この「無限責任」というものが行政運営上の「際限無く増える責任」に近かったと言えるのかもしれないと考えられます。

これを踏まえ、改めてエンターテインメントにおける「企業による統治」の例を考えて見る。
例えば「機動戦士ガンダム」における「フォン・ブラウン市」と巨大企業「アナハイム・エレクトロニクス」の関係性も、公的に市政を担当している「市長」以下の行政府と、主要企業として本社や工場を設置している。
いわゆる「企業城下町」のような形で支配圏を形成しつつも、あくまで企業としての立ち位置を守っている「アナハイム・エレクトロニクス」という関係性が存在しています。

より直接的に領地支配を行っている例としては「アーマード・コア」シリーズにおける「企業」の存在が挙げられます。
これらは破滅的争乱…いわゆる「ポストアポカリプス」的な世界の中で、資本として軍事力や技術力を保存しており、結果的に生き残った人々の中で主導的立場を取る事になったという。
見ようによっては「不可抗力によって」得た立場であったというような説明が為されています。

これらの企業も、その成立期こそ営利的な競争によって荒廃した世界を「開拓」するように復興させた一方で、その「競争」が破滅を呼び込むという物語になっていました。
こうした例を見ると、本質的に「企業」と「統治」、「権力」や「政治」といったものは、本質的に相性が悪く、同一の組織ないし個人が扱うには不利益の方が大きいというものであると考えられそうな結論になりました。
一見すると、権力を壟断する事で巨利を得るという際限の無い悪意が成り立ちそうなものではありますが、権力にしろ巨利にしろ、多くの人を相手取るという必要性から「自由自在に」とは行かないものであるという事なのかもしれません。

「企業」と「統治」

今回はこのように「企業」と「統治」という、現実でのそれぞれを少し捻った形にして提案するエンターテインメントの話題を元に現実的な考えを当てはめて見るという「楽しみ方」を試みて見ました。

想像を膨らませるという事で楽しみを拡げるエンターテインメントに対し、あまり現実的な考えで「縛る」のは「ナンセンス」という事になるかもしれませんが、想像を拡げる為に現実の事を知り、楽しみを「深める」というアプローチとしてこのような方向性を与えていく方法があると言えます。

今回の話題がこうした「楽しみ」を探す一助となれば幸いに存じます。どうぞ皆さんに良い「楽しみ方」が見つかりますよう!

単なる想像の産物に留まらない、かもしれない説得力を持った概念の一つと言える「企業が国家を運営する」形態。
筆者は「地下世界で傭兵業」な世界を思い出すクチですが皆様はいかがでしょう?

面白かった?

平均評価: 0 / 5. 投票数: 0

投票がありませんよ、最初の評価をしてね!

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

思った事を何でも!ネガティブOK!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次