皆さんは欧州の解剖学がいかに試行錯誤を繰り返して発展を遂げていったか、その舞台裏をご存じですか?
今回は欧州の歴史において長らくイロモノ扱いされてきた解剖学の功罪と、18世紀英国で暗躍した、死体盗掘人の実体に迫ってみます。
中世の外科医は内科医に見下されていた
大前提としてご理解いただきたいのは、中世ヨーロッパにおける外科医が、不当に貶められてきた歴史的背景です。
17世紀以前まで、民間の医療行為は教会付きの修道士が担っていました。彼等が患者に対して行えるのは、せいぜい軟膏を塗ったり薬草を煎じて飲ませること位。これは当時の教会が出血を不浄と見なし忌避したせいで、外科手術の許可が下りなかったのです。
そこで代わりに登場したのが、理髪師と外科医を兼ねる理髪外科医たち。
主な仕事内容は散髪・剃毛・抜歯・瀉血・浣腸・縫合などで、ヘルニアの切開手術や結石摘出、はてはブタの去勢や出産の手伝いまで幅広く請け負いました。理髪店のサインポールが赤・白・青の三色なのはこの名残りで、それぞれが動脈・包帯・静脈を表しています。
理髪外科医になるのに特別な資格や免許は必要ありません。理髪師の徒弟となって数年修行すれば誰でもなれると考えられていた為、ごく初歩的な読み書きすらできない者も珍しくなく、何でも屋に近い業態の彼等は、大卒の内科医より格下と見なされてきました。
生きてる人間にメスを入れる行為がタブー視されていたなら、死者を切り刻んで中身を暴く解剖医は、さしずめ悪魔の化身に見えたことでしょうね。
解剖の実験台は死刑囚の死体だった
光と影の魔術師の異名をとるレンブラント・ファン・レインの名画、『テュルプ博士の解剖学講義』は1632年の作品。ここに描かれているのは市制解剖官のニコラス・テュルプ博士が、腕の筋肉組織を医学の専門家に説明している場面ですが、注目してほしいのは木製の台に寝かされた死体。
彼の名前はアーリス・キント。この日の午前中に強盗の罪で絞首刑になった死刑囚です。
テュルプ博士が所属するアムステルダム外科医師会は、年に1体、犯罪者の遺体を用いた公開解剖を認めていました。博士の周囲に群れている黒衣の男性たちは、このイベントを冷やかしに来た見物人です。
彼等は解剖劇場と呼ばれる講義室に集まり、解剖官の説明を熱心に聞いています。入場料さえ払えば一般市民も見物可能なあたり、見世物小屋と大差なかったのでしょうね。
ヨーロッパはキリスト教の国。葬儀後の死者は手厚く葬られ、最後の審判を経た復活の日を待ちわびます。そんな彼等にとって、死体を辱める行為は最大のタブー。自身の体が切り刻まれるなど想像するだにおぞましく、忌避感を誘ったことは想像に難くありません。
当然の結果として回されてくるのは死刑囚の死体だけで、公開解剖を犯罪者への見せしめと考えていた節さえあります。
18世紀イギリスに横行した墓荒らしと盗まれた死体の行方
1752年、殺人犯は処刑後解剖に回すか、さもなくば鎖に吊るして晒しものにする殺人法がイギリス議会で可決されました。
当時のイギリスは産業革命真っ只中。ブルジョワ階級の台頭と比例し高等教育を受ける者が増え、1790年代には全国に300人しかいなかった医学生が、1820年代には1400人まで膨れ上がります。彼等は単位取得の条件として、最低3体の解剖ノルマを課されていました。
が、いかにイギリスが犯罪大国といえど、毎日のように新鮮な死体を調達できるとは限りません。実際の所1年間に供給される死体の数は10体~12体ほどにとどまり、イギリスの医学生の大半は、死体の供給ルートが確立されたフランスへ流出していきました。
浮浪者や自殺者、死産した嬰児や捨て子など、引き取り手のない死体の解剖が許可されたとて焼け石に水にすぎません。
そこで医学生が頼ったのが、素性の怪しげな死体盗掘人……ボディスナッチャーたち。冒涜的な所業を皮肉り、復活屋と呼ばれることもあったそうです。
死体盗掘人は通常2~4人で徒党を組んで活動します。
盗掘の対象となるのは警備が手薄な貧民層の墓地で、死体1体の値段は4ギニーから12ギニーほど。これはベテラン職工の給金5シリングと比べてもなお桁違いの儲けであり、食い詰めた一家を養っていくことができました。買い手は個人とは限らず、医学校や病院が契約を結んでいるケースも。
とりわけ買い手に好まれたのが奇形の死体。筋肉組織の研究に使える為、女性よりも男性の方が有難がられました。
死体の毛髪はカツラ、金歯銀歯は鋳物に流用できるので、受け渡し前に回収されるケースも多かったとか。盗掘時の決まり事として、副葬品に手を付けるのはタブー。共同墓地の死体は誰のものでもありませんが、副葬品の横流しはれっきとした犯罪にあたる、というのが当時の大衆の認識だったのです。
18世紀イギリスを象徴する死体がらみの事件といえば、バークとヘアの連続殺人が真っ先に浮かびます。
これは1827年から1828年にかけて起こった事件で、ウイリアム・バークとウイリアム・ヘアの二人組が共謀し、ヘアの営む下宿の住人を次々と手にかけ、エディンバラ医学校に売ったというもの。
二人と取引していたロバート・ノックス医師には、犯行を知りながら黙認していた嫌疑が持たれました。
合計17人に及ぶ被害者の中には退役軍人の乞食や娼婦、足が不自由な精神障害の若者や聾唖の孤児も含まれました。仕事を紹介すると彼等をだまして部屋に連れ込み、大量のウィスキーを飲ませて窒息に至らしめるのが、バークとヘアのお決まりの手口だったようです。
のちにヘアは釈放されたもののバークは絞首刑を免れず、死体は解剖に回されました。エディンバラ大学医学校にはバークの骨格標本が飾られ、彼の皮膚を装丁に加工した小冊子や、犯行の様子をほのめかす童謡が出回ったと言います。
「バークは肉屋でヘアは盗っ人 ノックスは坊っちゃま、肉買った」……意味がわかると怖い歌ですね。
英国の解剖学発展に貢献した外科医ジョン・ハンター
皆川博子『開かせていただき光栄です』は、変人解剖医と愉快な弟子たちが活躍する歴史ミステリー小説です。
本作の主人公のモデルとなったのは、18世紀イギリスに実在した外科医ジョン・ハンター。ハンターは1728年2月13日、スコットランドの農家で産声を上げました。子供の頃は外遊びを好む活発な性格で、勉学にはさっぱり興味を示さなかったそうです。
転機はロンドン上京後に訪れました。
開業医の兄の助手に任命されたハンターは、彼が解剖学講座で用いる死体を集め、標本作成や解剖の実技面においてメキメキ頭角を表していきます。後年には「実験医学の父」「近代外科学の開祖」と称えられる外科医にまで上り詰め、1776年に世界初の人工授精を成功させました。
作中のハンターは死体盗掘人と交渉し、解剖学講座に妊婦の死体を運ばせています。直接出向かないのは体面を損なうのを危惧した故。万が一身元が割れれば、遺族に報復される恐れもあります。
死体泥棒が社会問題化する以前も、医者見習いが墓を暴く事件は後を絶ちませんでした。
公共の墓地に埋葬が済んだ死体はもはや誰の物でもなく、何をされても被害を届け出れません。したがって罪に問うのは難しいにせよ、現行犯で捕まれば社会的制裁が下ります。だからこそ、立ち回りには細心の注意が求められました。
プライベートのハンターは珍獣や奇形を偏愛するコレクターとして有名で、裏でロンドン中の葬儀屋と通じ、該当する死体を買い取っていました。
身長2メートルを超える巨人症の大男、チャールズ・バーンのことも前々からコレクションに加えたいと狙っており、それを察したバーンが「棺桶に重石を付けて海に沈めてくれ」と遺言したにも関わらず、葬儀屋に賄賂を渡して死体を手に入れ、特大の鍋で煮込んで骨格標本を作った話に関しては、倫理観の欠如を疑わざるを得ません。
ジョン・ハンターは意外なあの人のモデルだった
レスター・スクエアにあるハンターの邸宅には表通りと裏通り双方に出入口が設けられ、社交界の友人や患者が表玄関を通ったのに対し、裏口は死体の搬入に使われていました。
以上の事実からジョン・ハンターを『ジキル博士とハイド氏』のモデルと見なす向きもあり、真偽のほどが気になります。皆さんもイギリスに行かれた際は、ぜひハンター邸を見学してみてください。
featured image:John Jackson, Public domain, via Wikimedia Commons


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