髑髏を抱いて眠る鬼神のお松、スリ集団を率いる雷お新〜女盗賊列伝

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女盗賊、いい響きですよね。皆さんはこの言葉からどんな女性を想像しますか?恐らくは美貌と色気と悪知恵を兼ね備えた、魔性の女が思い浮かぶのではないでしょうか。
今回は江戸時代~明治時代に活躍した女盗賊の中から、特に印象的な二人をご紹介していきます。

目次

遊女上がりの武家の女房が仇討ちを経て盗賊に

深川で遊女をしていたお松には奇妙な習慣がありました。それは亡父の髑髏を抱いて眠ること。
毎晩父の髑髏を抱えて寝るうちに浮世離れした色香を身に付けたお松は、やがて引きも切らずに客が通ってくる売れっ子芸者になり、「骸骨お松」の異名で知られるように。
そんなお松を見初めたのが常連客の一人である仙台藩士、立見丈五郎でした。

立見に嫁いで仙台に移住したのち、しばらくは平和な日々が過ぎました。ある日のこと、思いがけぬ事件が起こります。仙台藩士の早川文左衛門によって立見が殺されてしまったのです。所帯を持って早々夫に先立たれたお松は、伴侶の仇を取りたい一心で立見の同輩・稲毛甚斉に助太刀を頼みに行きました。
もとはといえば剣術指南の早川との試合に負けた浪人・山木伝七郎がこれを不服とし、友人の立見と稲毛甚斉を巻き込んで彼を襲い、返り討ちにされたのが発端。が、お松には関係ありません。本人に非があろうとなかろうと、愛する夫を失った事実は変わらないのです。

京都に逐電した稲毛を追いかけ漸く再会を叶えたお松ですが、男は「手伝ってほしけりゃわかってるな」と弱みに付け込み、彼女を手籠めにしようとしました。
力ずくで押し倒されたお松が必死に暴れた所、たまたま手にした懐剣が運悪く胸に刺さって稲毛は絶命。結論から述べると、この成功体験が早川を仕留める秘策をお松に授けたのでした。

以降のお松は放浪の旅程で強請り・たかり・殺人を繰り返し、路銀を荒稼ぎします。その手口は非常に狡猾で、標的が老人ならば仮病を装って同情を引き、若者ならば得意の色仕掛けで落としていきました。油断したところを懐剣でぐさり、というわけです。心ならずも稲毛を手に掛けてしまったことで、悪事に対する躊躇いがなくなったのかもしれません。

本懐を遂げて盗賊の女親分となる

再び仙台近くまで戻ってきたお松は、武者修行の旅に出ていた早川と偶然行き会うや千載一遇の好機と見て接近し、「着物が濡れては困ります」と甘え、渡河の際におんぶしてもらうことに成功しました。あとは背中を懐剣で一突きし、激流に蹴り込んでおしまいです。
その後は一関の北に位置する金岳山に陣取り、20余名の子分を抱える女盗賊として悪名を轟かせました。ならず者を率いて近隣の里を荒らし回るお松を見た人々は、「くわばらくわばら、天女の顔して鬼の所業だ」と噂し合い、「鬼神のお松」の通り名が広まっていったそうです。

天明3年(1783年)、早川の忘れ形見である若侍・文次郎に討たれ、お松はあっけなくこの世を去りました。これが現在まで語り継がれる鬼神のお松の伝説です。
上記の話のもとになったのは門付芸の浪曲「ちょんがれ」と言われ、こちらではお松はそのままですが、早川文左衛門は夏目四郎三郎に、息子の文次郎は千太郎となっています。野田サトルの漫画『ゴールデンカムイ』に登場する蝮のお銀のモデルともされ、犯行手口の相似がしばしば取り上げられます。

歌川国貞はこの話をもとに浮世絵「笠松峠女盗賊鬼神お松」を描き上げました。さらには浄瑠璃や歌舞伎に取り上げられ、お松の波乱万丈な武勇伝は独り歩きを始めます。
ここまで長々と語ってきましたが、鬼神のお松に関する資料は大変少なく、実在が怪しまれているのが本当の所。一方で架空の人物と言い切れない証拠に、青森県十和田市の奥入瀬渓流からほど近い場所には、お松がアジトにした「石ヶ戸」と呼ばれる岩屋が存在しています。

仮に創作上の人物だとしても悪女の魅力は衰えません。引導を渡される際に全く抗わず因果応報を受け入れたというのも、生半ではない覚悟を感じさせてくれますね。

嫁ぎ先から飛び出して浪花で成り上がった雷お新

続いて紹介するお新は幕末に実在した女性です。1850年(嘉永3年)、お新は土佐藩の武士の家で産声を上げました。子供の頃は近所で評判の美少女だったそうで、18歳になると早速縁談が持ち込まれます。
トントン拍子に縁談がまとまって嫁いでいったものの、ここで最初の番狂わせが起きました。気の強いお新は嫁ぎ先になかなか馴染めず、姑といがみ合うようになったのです。

しばらくたっても関係は改善されず、遂には離縁を申し渡され、衝動的に家出したお新。華々しく送り出された手前、今さら実家には帰れません。世間体を重んじる両親にとって、出戻り娘など迷惑でしかないのです。
苦悩の末にお新が向かったのは幕末の動乱真っ只中の大阪。そこで恐喝やスリに手を染めるうちに生来のきっぷのよさを買われ、自然と子分が集まるようになりました。嫁ぎ先で疎まされた気性の荒さと手癖の悪さが、意外な方向に作用した結果です。

2・3年が経過する頃には女盗賊雷お新の噂は大阪中に広まり、沢山の子分に姉御と慕われるようになりました。これに気を良くしたお新はさらに箔を付けようと企て、全身に派手な刺青を施します。
背中には弁財天と北条時政、臀部には雲に乗る六角の蛟竜、両股には岩見重次郎の大蛇退治の写し、腹には九紋竜史進と花和尚魯智深の深彫り、右腕には四股を踏む金太郎、左腕には緋桜の大彫物……彼女の思惑は見事に当たり、彼女の刺青を見た人々は恐れをなしたといいます。

以降は持ち前の美貌で金持ちをたぶらかし宿に連れ込んでは、いざ事を始める前に諸肌脱いで刺青を見せ付け、「命が惜しけりゃ有り金全部おいていきな」と脅すようになりました。案の定お新の啖呵と刺青の迫力に金持ちは震え上がり、言われるがまま全財産を差し出したのでした。嘘かまことか被害者の中には伊藤博文も含まれていたといい、事実ならとんだ赤っ恥ですね。西郷隆盛の弟・従道も同様の被害に遭ったそうですが、こちらは従道自身の刺青を見せ返したところ、お新の方が驚いて逃げ帰ったと伝わっています。

刺青に死後の想いを託したお新の生涯

1874年(明治7年)、お新は警察に捕まって投獄されました。遂に年貢の納め時、下された判決は強盗罪による終身刑。獄中では一貫して殊勝な態度に徹し、十分反省しているように見えたと言います。勿論これは周囲を欺く芝居に過ぎず、裏では着々と脱獄計画を進めていました。転んでもただでは起き上がらないお新です。

決行は1882年(明治15年)の嵐の晩。看守が暴風雨の対応に駆り出され、牢の警備が緩んだ隙を突いてまんまと脱獄したお松は、そのまま夜の町に紛れて逃亡するものの、翌年には再び逮捕されています。
お松の晩年の足跡は定かではありません。紆余曲折を経て赦免され、東京へ引っ越してからも窃盗や恐喝の悪事を重ねたことはわかっていますが、若かりし頃の容色が衰えて、嘗てのカリスマ性を失っていたのではないでしょうか。

その推理を裏付けるように1890年(明治23年)、お松は流行り病を患って独り寂しく亡くなりました。享年40歳でした。
遺言は「私の皮膚をなめし革にして、自慢の刺青を永遠にとっといてくれ」。お新の望み通り彼女の刺青は標本として大阪医科大学に保管され、展示会の目玉となったそうです。

極悪非道な女盗賊たちの壮絶な一生

以上、日本を騒がせた女盗賊の中から鬼神のお松と雷お新を紹介しました。
鬼神のお松の実在が疑問視されているのに対し、雷お新はほんの100年前まで生きていたのがすごいですね。
彼女の自慢の刺青、一度生で見てみたいです。

featured image:Los Angeles County Museum of Art, Public domain, via Wikimedia Commons

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