あれは社会人になって最初に借りた部屋の話だ。
築40年を超えた木造アパートで、二階建て、全部で六部屋しかない小さなアパートだった。
駅から遠くて、風呂も古くて汚いが、そのぶん家賃は安かった。
入居した最初の夜から、壁越しに声が聞こえた。
男のだった。内容は聞き取れない。ただ、独り言ではなく、誰かに向かって話しているような抑揚があった。テレビとも違う。壁が薄いせいで生活音が漏れているのだろうと思った。
うるさいほどではないが、気になって眠れないかった。
翌朝、もうすこし静かにしてくれと隣室にいった。
表札はなかった。郵便受けにはチラシ一枚入っていない。だが人の気配がしたので、何度かドアをノックしてみた。
それがうるさかったようで、隣の住人が出てきた。
バツが悪かったので昨晩の事を話すと、隣はずっと空室だと言われた。前に誰が住んでいたかも知らないらしかった。
古くてオンボロだから、どこか違う部屋の音が聞こえたのだろうと説明され、それよりも、あんまりドアを叩くような事はするなと文句を言われた。
気にしないようにしていたが、それでも、夜になると声は聞こえてきた。
毎日ではない。週に二、三回ほど、決まった時間ではなく、壁に耳を当てなくても聞こえる程度の小さな声だったが、妙に生々しかった。
三ヶ月もすると慣れた。遠くでラジオが流れている程度にしか感じなくなり、声を聞きながら眠ることも増えた。奇妙ではあったが、害はない。そう割り切っていた。
変化に気づいたのは、半年ほど経った頃だった。声が二人になった。
元から聞こえていた低い声に、もう一つ、女性のような声が聞こえてきた。壁一枚向こうで会話しているようにしか聞こえなかった。
その夜、本当に隣にだれもいないか、確かめに廊下へ出た。
隣室の前に立つと、中からくぐもった声が漏れていた。以前よりはっきり聞こえる。耳を近づけた瞬間、不意に声が止まった。
ドアの向こうに誰か立っている。そんな感覚が急に生まれた。ノックしようとして、やめた。
迷惑になるからとか、怖かったわけではない。ただ、そうしてはいけない気がした。
部屋へ戻ったあと、しばらく耳鳴りのような感覚がした。
朝起きると、喉が妙に乾いていて、誰かと長く話したあとのような疲労感がした。
翌朝から、隣室の声は聞こえなくなった。
数日後、例の部屋とは反対側の部屋に住む、年配の住人が訪ねてきた。
昨夜、私の部屋からずっと話し声が聞こえていたという。深夜まで続いていて、うるさかったらしい。
友人を部屋に呼ぶのは良いが、しずかにして欲しいと文句を言われた。
その夜、私は一人だった。
気味が悪くなり、スマホの録音アプリを起動したまま寝てみた。
翌朝、再生した音声には、寝返りやエアコンの音に混じって、かすかな声が入っていた。
低い男の声だった。その少し後に、聞き覚えがある声が聞こえた。
自分の声だった。
数週間後、引っ越した。
※画像はイメージです。


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