私が、都内某所の格安アパートに引っ越したときの話です。
そこはいわゆる「心理的瑕疵あり」の物件でした。家賃は相場の半額以下。
前の住人は、室内にある唯一のクローゼットの中で首を吊って亡くなったそうです。
実に手垢のついた、ネットにいくらでも転がっているようなテンプレ通りの事故物件でした。
私は恐怖よりも好奇心が勝っていました。「何か起きればネタになる」と踏んでいたのです。
引っ越して三日目の午前2時ごろ。 最初の異変が起こりました。
クローゼットの奥から、引っ掻くような、あるいは内側から扉を小突くような不気味な音が響いてきたのです。
私は身構えました、霊能力などない一般人です。
スマホのカメラを起動し、恐る恐るクローゼットの扉を開けました。
中は当然、空っぽです。カメラを向けると、音はピタリと止まりました。
翌晩も、その翌晩も、午前2時頃になると音が鳴りました。
これは「前の住人の霊が自己主張しているのだ」と解釈し、検証動画を撮影するために、クローゼットの内部に暗視機能付きの小型カメラを設置して、一晩中録画することにしたのです。
翌朝、期待に胸を膨らませて動画データをパソコンに移し、再生しました。
タイムレコードが「02:13:00」を指したとき、やはりあの音が響き始めました。 しかし、画面に映っていたのは、予想を裏切る光景でした。
クローゼットの中には、人影も、動く物体も何も映っていません。
ただ、カメラのレンズ自体が、細かく、激しく振動していたのです。
音の正体は、この目に見えない超高速の振動が、木製のクローゼットの壁や扉に干渉して生じた、純粋に物理的な摩擦音でした。
私は落胆しました。 霊現象じゃなく、近くの地下鉄か高架道路の大型トラックが起こした低周波の共振だろう。
この部屋の建築的な配置と構造が、ある特定の時間帯に外部から伝わる低周波を増幅し、クローゼットをスピーカーのように鳴らしていただけだったと思います。
ネットの怪談にありがちな「怨念」などどこにもない。
私はつまらない結果に落胆しました。
しかし、部屋を引き払ったのは、それからわずか三日後のことでした。
私は致命的な事実に気づき、深夜に着の身着のままビジネスホテルへ逃げ込んだのです。
納得のいかない私は、クローゼットの中の映像を何度も見返し、ある「異常」に目を留めました。
振動が始まった午前2時13分。揺れていたのは、クローゼットの内壁やカメラだけではありませんでした。画面の端、開いた扉の隙間から辛うじて見えていた、ベッドで眠る私自身の「右手」もまた、クローゼットと完全に同じ周期で、ガタガタと激しく静止と運動を繰り返していたのです。
そんな風に身体が震えていた自覚など全くありませんでした。
慌てて過去三日間の全データを精査し、戦慄しました。
毎晩午前2時13分、あの音が鳴り響く三分間、私は完全に意識を失った状態でベッドから起き上がり、無表情のままクローゼットの前に歩み寄っていました。そして、衣服をかけるためのハンガーパイプに手をかけ、自分の体重を預けるように、何度も、何度も、首を押し付ける行動を繰り返していたのです。
低周波の振動と同調した私の肉体は、脳の命令を無視して、特定の物理運動へと誘導されていました。
前の住人がなぜ死んだのか。彼は霊に殺されたのではありません。
この部屋の構造に、肉体と脳の電気信号を強制的に調律され、自ら進んで縄に首を通したのです。
スマートフォンには、逃げ出す前夜の動画が残っていました。
そこには、クローゼットの中で激しく震えるカメラの向こうから、ゆっくりと扉を開け、「次は、お前の番だ」と言わんばかりの狂ったような笑顔で、こちらを覗き込んでくる男自身の顔が映っていました。
※画像はイメージです。


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