日本で混浴は当たり前の文化だった

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江戸時代の日本では、銭湯の混浴はごく当たり前の光景だったという。
現代人の感覚ではなかなか理解しにくい話だが、当時の人々の生活環境や価値観を知ると、意外にも不思議ではなくなってくる。

目次

江戸で銭湯が広まった理由

江戸で銭湯が発達した背景には、巨大都市への急成長がある。
徳川家康が江戸に幕府を開くと、大規模な都市整備が始まり、日本各地から職人や労働者が集まった。上水道が整備され、水が比較的手に入りやすくなったこともあり、庶民の間で銭湯の需要が急速に高まった。

江戸は火災の多い町だったため、裕福な商家であっても内風呂を持たないことが珍しくなかった。まして長屋暮らしの庶民に自宅の風呂などなく、多くの人が日常的に銭湯へ通っていた。

江戸初期には「湯女風呂」と呼ばれる銭湯も存在した。湯女と呼ばれる女性たちが客の世話を行い、やがて風俗営業の色彩を強めていったため、幕府はたびたび取り締まりを行っている。
混浴についても幕府は何度も禁止令を出しているが、なかなか徹底されなかった。

当時の銭湯は現在とは構造が異なり、熱や湯気を逃がさないために入り口が小さく、内部はかなり薄暗かったといわれる。そのため男女の区別もつきにくく、現代人が想像するような明るい浴場とは大きく異なっていた。

日本人は裸をどう考えていたのか

混浴を理解するうえで欠かせないのが、当時の日本人と裸との距離感である。

幕末から明治初期に来日した外国人たちは、日本人の裸体への感覚に驚いている。
アメリカ初代駐日総領事であるタウンゼント・ハリスや、日本各地を旅して『日本奥地紀行』を著した イザベラ・バードは、日本人が欧米人よりもはるかに裸に対して無頓着だったことを書き残している。

当時は川で水浴びをする人々の姿も珍しくなく、農村や漁村では半裸体で働くことも一般的だった。
現代人から見れば驚くような光景だが、当時の人々にとって裸は必ずしも特別ではなかったのである。
もちろん、だからといって誰もが平気で全裸で歩き回っていたわけではない。しかし現代社会ほど裸体を強く性的なものとして扱っていなかったことは、多くの外国人の記録からもうかがえる。

そう考えると、銭湯で異性の裸を目にしても現代人ほど、強い違和感を覚えなかった可能性は十分にある。

混浴を支えたもう一つの理由

混浴が続いた理由は価値観だけではない。
銭湯を男女別にするには浴槽や設備を増やさなければならず、燃料代も余計にかかる。現代のように大規模な施設ならともかく、江戸時代の銭湯にとって男女別の運営は簡単なことではなかった。
つまり混浴は文化的な背景だけでなく、経営上の合理性も持っていたのである。

また、もし日常生活の中で裸を見る機会が多く、さらに混浴が当たり前の環境で育ったなら、「じろじろ見ない」「余計なことをしない」といった暗黙の作法も自然に形成されていたのかもしれない。
混浴文化は単なる開放的な気質によって生まれたのではなく、社会全体の習慣や常識によって支えられていたと考えられる。

現代人が驚くのは当然だった

混浴が問題視されるようになったのは明治時代になってからである。開国によって日本を訪れた欧米人たちは、男女が同じ風呂に入る光景に強い衝撃を受けた。キリスト教文化圏の価値観では受け入れがたい習慣だったため、政府にも改善を求める声が上がり、明治政府は混浴禁止へと動いていく。

だが、江戸時代の混浴を単純に「昔はおおらかだった」の一言で片付けることはできない。
都市の発展、銭湯文化の普及、裸体に対する価値観、経済的な事情が重なり合った結果として、生活文化として成立し、日本人にとっては日常そのものだった。

だからといって、現代人が違和感を覚えるのは当然。
その違和感こそが、私たちが当たり前だと思っている価値観もまた時代によって大きく変化することを教えてくれるのである。

※画像はイメージです。

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