Vtuberの存在は果たして?

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

昨今、巷で大人気のVtuberなる存在。
様々な魅力を発信する彼らには、当然のごとく何万、何十万というファンが存在する。

そこで私は、疑問を抱いた。
Vtuberへ向けられた人々の思念は、いったいどうなるのであろうか?

目次

思念はどこへ向かうのか

何万、何十万という人々の執着や愛情という強い感情が、Vtuberという一つの存在へ向けられ続けている。
そこに配信だけではなく、切り抜き、ファンアート、二次創作を通じ、無数の解釈で反復されて増幅する。

そうした思念の蓄積は、何の痕跡も残さず消えてしまうものなのだろうか。
もし消えぬのであれば、向かう先は配信者本人なのか?
キャラクターなのか?

私の仮説では、キャラクターである。
理由として、根本には配信者がいるのだが、視聴者が見ているのはあくまでもキャラクター。
配信者自身を応援している人もいるだろうが、多くの場合、人々が愛着を抱くのは名前であり、姿であり、世界観であり、そのキャラクターとしての存在である。

思念はひとつの像へと収束し、ネット上に留まり、蓄積されていく。
もちろん、それを証明することはできない。
しかし、現実の人間とデジタル上の像が曖昧に重なり合うVtuberという存在は、その境界線上に想念が集まりやすい構造を持っているのは確かな事である。

さらに興味深いのは、その存在が配信者本人を超えて残り続けることだ。

Vtuberは引退する、活動を終える者もいる、当然ながら人間である以上、いつかは死ぬ。

しかしキャラクターは、様々な媒体に残る。
語られ続けられ、思い出を語る人々の心にも残る。
つまり、配信者が消えても思念の向かう先は残り続けるのである。

もし人々の思念が本当にキャラクターへ集まっているのなら。
ネット上に蓄積された無数の記憶と思念によって、存在を維持され続ける存在である。

思念の行き着く先

古くから人々の思念が集まったものは、ときおり現実化する。
特定の場所にまつわる怪談や怪異、昭和の時代に噂となった、こっくりさん、口裂け女、トイレの花子さんもその類である。
それらは実在するかどうかではなく、人々に語られ続けたことで存在感を獲得していった。
存在そのものよりも、人々がそれを知り、恐れ、想像し続けたことに意味があったのかもしれない。

もしそうだとするならば、Vtuberという存在もまた、その例外ではない。
何万人、何十万人という人間が同じ名前を呼び、同じ姿を見て、同じ存在へ感情を向け続ける。
過去の都市伝説とは、比較にならない規模であるからこそである。

だが私は時々考える。
ネット上のどこかに蓄積された膨大な思念の行き先がキャラクターなのだとしたら、新しいVtuberを生み出したと思っていたら、それは逆なのかもしれないと。
我々の眼の前に現れた新しいVtuber、その先に配信者はいない。
いるのは、人々の思念が生み出した意志を持った怪異。

ネット文化そのものが人々の想像力によって発展してきた歴史を考えると、まったく荒唐無稽な話とも言い切れない気がする。

※画像はイメージです。

面白かった?

平均評価: 0 / 5. 投票数: 0

投票がありませんよ、最初の評価をしてね!

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

思った事を何でも!ネガティブOK!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次