第二次大戦の欧州戦線では、急激に戦車の大型化・火力の強化が行われたために、大戦前・大戦初期では通用した戦車も、中盤以降通用しなくなったのはご存じの通りかと思います。
そして独軍では旧式化した戦車の車体に対戦車砲を載せて、自走砲(駆逐戦車)として使用し始めたのですが、その初期の頃を写真を見て、改めて自走砲について考えてみたいと思います。
とにかく「火力」が欲しかった
第二次大戦、特に欧州の東部戦線からアフリカ戦線(後にはイタリア戦線)と戦車同士の戦いが激しくなると、旧式戦車、独軍であればI号戦車やII号戦車、38(t)戦車の車体を利用した自走砲が対戦車戦闘に駆り出されていったのでした。また、西部戦線(北部フランス)でも、接収した旧フランス軍戦車の車体を利用して自走砲に転用されたりして、なんとしても対戦車戦闘が出来る車両を揃えようという方針が見て取れます。
そこで開発されたのが、マーダーII(II号戦車ベースの自走砲)やマーダーIII(38(t)戦車ベースの自走砲)なのですが、戦場での写真(googleやpinterestなどで見つけやすいと思う)を見ると、その装甲の薄さゆえに前線から一歩引いたところで戦っているような、そのような姿が窺える写真とか見ることが出来ます。
「無いよりはマシ」レベルではあっても、装甲板に守られた砲撃席から敵戦車を撃破するために戦った兵士の方々には本当に頭が下がると思いますし、ある程度実績を残したからこそ、IV号戦車ベースのフンメル/ナースホルンの開発から密閉式戦闘室となり「駆逐戦車」となったIV号ラングやヘッツァーに進化したのだと思います。
民族性の違い??
が「やはり」というか、車体部分はまだしも砲撃室の装甲は皆無である自走砲、激戦になるにつれて生存率も下がっていくことになるのですが、しかし生き残った車両は、終戦の時まで東部・西部・イタリアの各戦線で戦い続けることが出来たということで、自走砲は兵器としては失敗作ではなかったと思っています。
アメリカが旧式戦車を改良するよりも旋回砲塔を持つ戦車を作った方が早いという、その割り切り方も「なるほど」と思う一方で、ソ連は独軍の突撃砲・駆逐戦車の有用性を認め、SU-85など固定式戦闘室を持つ車両を投入していったことは、民族性の違いなのか!?とか思ったりもしたのでした。
eyecatch source:Menzies (Sgt), No 2 Army Film & Photographic Unit / Public domain
思った事を何でも!ネガティブOK!