私の主人の祖父は教員でした。
住んでいた場所は群馬の片田舎で、教員でありながら、地元農家の地主でもありました。
今でも田舎で田んぼが沢山あり、赤城おろしがひどいところです。
75年前はもっと田舎だったと思います。
きっと子供達は野山をかけまわり、のびのびと育っていたと思います。
戦況がひどくなるにつれて祖父は、戦争に行かねばならない教え子を心の底から心配したのでしょう。
戦争に行く前に祖父のところに挨拶を来た教え子一人一人に、これで身を守れと言い、鉄砲を一丁一丁心を込めて渡していったといいます。
かわいい教え子が最後のお別れに、義祖父のところに挨拶に来るのはとてもつらかったでしょう。
かける言葉もなかったと思います。
時代が時代だったので死ぬな、生きて帰ってこいとも言えず。
祖父は教員として、教え子を戦争に送り出さなくてはならないのあれば、せめて闘う道具をと思い、お餞別に鉄砲を渡したのでしょう。
教え子は自分の家族みたいなものですから・・・生きて帰ってきてほしいとも言えず、哀しみを表現することもできない祖父、さようならと言う代わりに鉄砲を渡していったのだと思います。
将来ある若い人が戦争に行くのは本当につらかったと思います。
祖父がこんなにつらい思いをしていたのだったら、親はどんなにつらかったでしょうか。
泣くことも許されない時代、我が子、我が夫が、我が恋人が、我が兄が、我が弟が戦争に行かねばならに状況は、さながら地獄としか言いようがなかったと思います。
ライターとして走り出したばかりのくま子です。よろしくお願い致します。
書くことはおもしろいなあと思っているところです。
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※写真はイメージです。
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