戦術の天才と言われた秋山真之は、反面かなりの変人でした。
変人振りアレコレ
彼の奇行についていくつか解説します。
立小便
米国駐在武官時代、秋山中尉が外交官補の友人と、米国人造船技師の家に遊びに行きました。
呼び鈴を押した後にあろうことか、彼は庭の植え込みに立小便を始めたのです。技師夫婦が玄関を開けたらどうしようと、傍の友人はハラハラしました。
幸いに立小便は玄関が開く前に終わり、事なきを得ました。また海軍大学の正門前に大きな桜があり、教官の秋山少佐はその桜木に立小便をするのが常でした。
海軍少佐の軍装のまま、周囲に人がいようがお構いなしです。ですから屁などは言わずもがなで、力一杯所構わずでした。
ポケットに煎り豆
秋山の軍服のポケットには常に煎り豆が入っており、四六時中ポリポリと噛んでいました。
ロンドンの人通りの多い路上や海軍大学教官室でも、東郷平八郎連合艦隊司令長官がいる、旗艦・三笠の作戦室や戦闘中の戦闘指揮所であってもです。
またバルチック露国艦隊の出現が、対馬か津軽かを検討している会議の真っ最中、真剣な面持ちの司令長官その他の高級幕僚の面前で、秋山は突然テーブルの果物入れのリンゴを掴んでガリッと喰い始め、一同を唖然とさせて平気でした。
他にも、秋山は食後すぐに靴下を脱ぎ、食後の晩酌を楽しんでいる他の幕僚を気にせずに、水虫の足をポリポリ掻いて憚りませんでした。
そして頭を明快にするためにと、女性用飲み薬「実母散」を常に服用していました。
いつも汚れているズボンの尻
秋山は軍艦勤務中に、軍服でどこにでも平気で座りました。
だからズボンの尻がいつも汚れています。
将校の威厳を考えよと、艦長などが注意しても馬耳東風でした。またロンドンで正式な晩餐会に招待され、着替えを汚い風呂敷に包んで持って行こうとし、見っともないと艦長にボストンバッグを押し付けられたり、秋山家の旧主の元殿様・松平久松公の御前に、酷い襟垢汚れの着物のまま参上して妻を困惑させました。
そんなですから着てきた制服が周りの者と違っているなどは日常茶飯事でした。
日本海海戦当日、戦闘指揮所での秋山は、通常は上着の中でズボンの腰に付ける剣帯ベルトを、上着の上からを締めていました。その異様な格好に周囲は、「また変なことをしている」と眉をひそめていました。
腹を絞めて胆力を据えておきたかったと、後に秋山は説明したそうですが、三笠艦橋の図で有名な東城鉦太郎画伯が、そのまま描いても良いかと問うたところ、「それは勘弁」と答えたといいますから、さすがに自分でも変だとは思っていたようです。
専門バカとは少し違う?
天才にはしばしば専門バカがいます。
専門については天才だけど、電車の切符を自動販売機で買えない、といった類です。
でも秋山真之はそういうタイプではありません。正岡子規と親友だった秋山は、元々は正岡と共に文学を志していました。しかし経済的理由でその道を断念して海軍に入りました。
だから「天気晴朗なれど」云々の名文を数多く生み出しているのです。
また海軍大学教官時代は、生徒の自由な考えを尊重した合理的な教え方が好評でした。
秋山語録の中に
「人間の頭脳に上下なし。必要なのは要点把握の能力と不要不急のものを切り捨てる大胆さのみ」
というものがあります。
軍人となった以上は軍事の研究追求が第一であり、私生活の事柄は彼にとっては、どうでもよい些末事だったのでしょう。
超がつくほどの合理主義が、自由な発想を最重要視した秋山の思考方法と相まって、私生活に対する無頓着が極端になったのかもしれません。
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参照:知将 秋山真之 生出 寿(おいでひさし)著
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