先日、来世について調べていた時、ウィキペディアに「動物の来世はない」という記述があった。
筆者の宗教観としては、動物と人間の間に、現世来世にこれといった差はない筈だ。
一般的な素朴な認識としても、ペットを見送る時、「また生まれ変わって、自分のところに来て欲しい」という発想は、珍しくはなかろう。
しかし、ある程度の権威として参照される事も多い、あの「ジ・ウィキペディア」に、いい加減な事が書いてあることなどあろうか?(反語)
新概念「全体集合魂」
書いてあるのだ(反語の撤回)。
ウィキペディアは、フリー編集の百科事典サイトなので、どんなトンチキな事を書いても、善意の第三者によるツッコミが入るまでは、そのまま放置だ。
参照の多さによって監視されている事が、情報精度を担保している訳だが、参照した瞬間にアレな人がアレな記事をねじ込んでいる事を回避出来ない。
件の記事をそのまま引用するのは避けるが、要旨を言えば、ウィキペディアの「来世」に、2022年4月11日修正版以降、動物の来世について、「全体集合魂」に帰一して、「月の生理に従い生み出される」との記述にされていた。
「全体集合魂」って、何?
検索して17件しか出て来ない、どう考えても独自研究の言語である。
だがミスター・ウィキが言い切っているのだ、まずは信じる心で接してみようではないか。
肯定から入るのも、否定から入るのと同じぐらい益のあるものだ。
動物の魂はどこへいく
まず、ウィキーさんの理論が本当である場合、動物の死後に何が起きているのかを考えよう。
生まれるところは省略し、動物が死ぬ場面だ。
動物の身体が死に、魂が抜け出る。
そして抜け出た魂は「全体集合魂」に「帰一」する。
「帰一」とは、「違ったものが1つのものに帰着する」事を指す。
ここまでで分かる事は、
動物には、個々に異なる魂がある
これである。
この時点で、十把一絡げに「人間」「食い物」「喰ったら駄目なもの」「アメリカにあった、よく考えたら喰っていいもの」に分けたユダヤ教系からは離れる。
さて、「全体集合魂」はどこにいるのだろうか。「月の生理に従い生み出される」とあるため、月から地球までのどこかである。月の影響は、光か重力が大きいため、地中の可能性は薄い。
地球上の特定地域だとすると、その周辺以外が遠回りになる。
ある程度均等にするなら、衛星軌道が手頃と考えるべきだろう。
つまり、我らが「全体集合魂」先生は、月と地球を結んだ高度35,786kmの静止衛星軌道上にいると考えるのが合理的だ。
それ以外の場所の場合、月を追う無駄な運動が必要になる。
当初がそうだったとしても、動物らしい動物が現れたのがカンブリア期であるから、5億4000万年は経っている。
効率の良い場所に収斂していく筈だ。
どんな先例主義者でも、多少は効率化するものだ。
それは霧雨のように
さて動物の魂は、空へ上がり衛星軌道の「全体集合魂」に到達する。
そこでひとまとまりになって、元の動物の魂であった過去はリセットされる。
次の動物が誕生する時、「全体集合魂」氏は、己を少しちぎって新しい魂とし、動物に入れる。
喩えるなら、クッキーの型抜きした生地をまとめて、新しいクッキーを抜くようなものだ。
月がどう作用するかは分からないが、光による圧とするなら、一定のベクトルはあり得る。
魂に一定のエネルギーとして付与されると考えれば、発生時のエネルギーを使い果たして戻って来るというのは理屈に合う。
ルンバだって、充電ベースに帰って来るのだ。それより複雑な動物の魂も同様だろう。
では、月が出ていない日に動物は生まれないのか?
これは、落下速度で解釈出来る。
魂の供給は、ゆっくりなのだ。
つまり、「全体集合魂」が地球の周りをまわる間に、霧雨のように無数の魂を、任地に向けて降らせるのだ。
地球を焼き上がったパウンドケーキに喩えれば、シュガーパウダーを絶え間なく落としているような状態だ。
従って、月が裏側にあっても、動物は生まれる。その魂は、丁度丸1日前に「全体集合魂」から、パラパラふるわれたものだ。
大気中は動物の魂でいっぱいだ。
人と動物を分かつもの
なるほど、この方法なら理解出来る。
理解出来るが、なんでそれが、「動物と人間で違うのか」そこが分からない。
人間の魂は複雑で、クッキー形式で都度作り直すのがもったいない?
だとしたらそれはいつからだ。
チンパンジーやボノボの魂はどっちだ。
進化の過程のどこで、人間の魂が「全体集合魂」に戻れなくなった?
この霊魂観は、人間も同一であると設定した方が無理がない。
同じように人間の魂も、クッキー生地に練り込まれる。
しかし、何かしらの修行で、複雑で粘りのある魂になっていた場合、こね直しても少し残る。
前世の魂の形とは変わるものの、何となく本質は残った形になる。
魂の形が人間が他を若干残すから、再び人間に生まれやすい。
これを繰り返し、最後には死んでも変わらない堅固な魂を持つ者か、魂の制御に気付く者は、神の領域に到達し、解脱する。
これで十分成立する。
そして、この時、動物に来世はあるのか、と言うなら、あるけれど元の形は残らない、という結論になるだけの事である。
魂と来世は不可分
結局、ウィキ山ペディ太郎氏は、「人間と違い動物に来世はない」という根拠に「全体集合魂」を出したものの、それは人間と動物を分ける理由になっていない。
肉体が滅んだ後も残る個を表現するために作られた概念が「魂」なので、それが存在出来る場である「来世」と切り分けられる訳がない。
「魂」と「来世」は、「コーラを飲む事」と「ゲップが出る事」ぐらい不可分なものだ。
「動物に来世がない」と言いたいなら、最初から動物に魂を認めてはいけなかったのだ。
その点、最初から動物を単なる食糧として配置したユダヤ教とそのフォロワーのなんと潔い事か。
彼らは類人猿と人間の区別に悩まなかった。
当たり前だ。
区切り線は、ざっくりと大きく「内側」に引かれていたのだから。
※画像はイメージです。
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