MENU

3代将軍「足利義満」の最後の謎について

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

室町幕府3代将軍である足利義満は、足利歴代将軍の中で一番の権勢を誇りました。
しかし彼の最後は、多くの憶測と謎を今日に残したままです。
今回は、義満の功績と共に最後の様子を考えてみました。

目次

足利義満とは

足利義満は2代将軍である足利義詮の子として生まれ、わずか11歳にして3代将軍の地位を承継します。
義満の功績は、幕府の基礎を固め全国の武士の頂点に足利家が立つことを成功させた事です。

義満が将軍に就任する以前は、足利家は将軍ではあったもののその将軍としての性格は、有力大名の連合政権ともいうべき立場であり絶対的な権威はありませんでした。しかし義満はカリスマ性を発揮し、徐々に足利家を有力大名の上の立場に立たせる事に成功させます。

室町幕府

明徳の乱と呼ばれた、全国の領地の約6分の1の領土を有する山名氏の討伐に成功します。そして1392年に当時2つに分かれていた北朝と南朝を統一させました。
これにより朝廷がひとつに統一される事となり義満の権威は高まっていきます。そして朝廷で最高職である太政大臣に就任します。

武士出身としては平清盛に次ぐ太政大臣であると共に源氏としては、源頼朝さえ就任できなかった源氏姓を名乗る武士として
初の太政大臣への昇進です。まさに足利義満は武士の棟梁である征夷大将軍として武士の頂点に位置し政治的には、太政大臣として朝廷内で君臨していた最高権力者でした。
さらに足利義満は財政面でも日明貿易で確固たる財政的な基盤を確立させて室町幕府の権威は大いに高まったと言われています。

野望

1406年に後小松天皇の生母がこの世を去ったため、足利義満は自身の正室である日野康子を天皇の母と同列の地位である准母とします。これは、自身の妻が現天皇である、後小松天皇の母という事を意味し、即ち足利義満は天皇の父という立場になります。さらに義満は自分の子である足利義嗣を親王として元服を行います。

自分自身はあくまで武士であり天皇になる事は不可能です。しかし義満は自身の子である足利義嗣の元服の形式を、立太子と呼ばれる天皇家の伝統的な形式で行ったと言われています。全ての地位に昇りつめた足利義満にとり後は自身が天皇の父として上皇と同じ地位に立つ事を考えていたのではと言われています。つまり、最終的には足利義嗣が天皇になる事を目指していたのではないかと考えられています。

足利義満の最後

しかし足利義満という当時の最高権力者の夢は突然消滅します。
自身の子である足利義嗣の元服のわずか2日後に突然の病に倒れ、医師の治療もあり一時的に回復したものの発病から1週間ほどでその生涯を閉じてしまいます。享年51歳だったと言われています。

歴史的には義満は流行の病にかかったと考えられていますが、足利義満の権勢拡大を警戒する勢力による妨害があったのでは
ないかとする説が今でも根強く残っています。
最高権力者の突然の最後はその後の足利幕府の行く末を混沌とさせ、その後急速に足利家の権勢は衰えていきます。
彼がさらに生存していたら、日本史がどんな形に変化していたかは謎ですがひとつだけ言える事は、日本史において足利義満は武士としては最高の権力を有した1人であった事は疑いの余地はないという事です。

featured image:Los Angeles County Museum of Art, Public domain, via Wikimedia Commons

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

どんな事でも感想を書いて!ネガティブも可!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次