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原爆とゴジラとブルーインパルス

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東宝映画 ゴジラ誕生 1954年、ブルーインパルス 愛称決定 1960年、ブルーインパルス 2代目塗装デザイン 1963年。

目次

ゴジラと機体デザイン

日本漁船が米国水爆実験で被爆した1954年の第五福竜丸事件は、 日本人に広島長崎の原爆を思い出させました。
この事件が核実験で蘇った怪獣・ゴジラを生み出します。

ゴジラ映画の特撮で東宝の美術部長・北猛夫が名を馳せることになりますが、 彼が率いる美術部では部員の芸術家志向が高くてこだわりが強く、 その遅い仕事振りに短気な北はいつも苛立っていました。
そんな中、沼田和幸の早い仕事が北の眼鏡に適います。

1964年に東宝から、ブルーインパルスを題材にした映画「今日もわれ大空にあり」が配給されました。
この映画製作には始めて航空自衛隊が協力しており、ブルーインパルスが空撮などに参加協力して、 今では当時のパルブルーインパルスの姿を記録した貴重な映像にもなっています。
北はこの映画でも美術を担当し、その下で沼田も働きました。

それまでブルーインパルスの機体塗装は無塗装ジュラルミン生地に部分的なペイントだけで、 機体上下面の識別が難しくて曲技飛行中の姿勢が判別しにくいことから、 塗装デザインの変更が検討され始めていました。

折からの映画撮影の関係から、デザインアイデアを東宝美術部が提案する事になります。
担当になったのは仕事の早い沼田でした。

空自の希望も取り入れた沼田のデザインは、 機体上面は白地に青のライン、下面はヴァーミリオン(朱色)をメインカラーにしたものでした。
増槽タンクは全体が朱色生地で白い筆記体でBlue Impulseと描かれていました。
このデザインはハチロク(F-86F)が引退するまでの18年間使われ、 ブルーインパルスのイメージカラーとなりました。

原爆の衝撃

ブルーインパルスは発足当初「空中機動研究班」と呼ばれましたが、 一般に親しみ易い愛称を付けることになります。
ベースの浜松基地傍に流れる天竜川に因んで「天竜」の案が出ましたが、 米軍管制官には発音が難しいと不評でした。

空自の飛行部隊には無線交信用のコールサインがあり、 時の研究班所属部隊のそれはインパルス、班はブルーで交信時にはインパルス・ブルーを使っていました。
愛称決定を任せられていた編隊長の稲田淳美はそのコールサインの流用を考えていました。

その頃、稲田は妻の英子にある話を聞かされます。
英子は広島県呉市出身で、救援などにより原爆投下後の広島市内で二次被爆した、 呉市民の惨状を数多く目の当たりにしていました。
そして呉から山越しに見えた原爆の青い閃光の強烈な印象がその悲惨な状況と重なっていました。

「衝撃的と言うなら、余に悲惨ではあるけれど、原爆の青い閃光ほど衝撃的(インパルス)なものはない」
と彼女は何かの折に夫に話したのです。

それは正にブルーインパルスを示唆した言葉で、ブルーインパルス命名の瞬間でした。

歴史大好きじいさんです。
意外な結びつきは、歴史の中でしばしば出現します。

参照:ブルーインパルス 武田頼政 著

featured image:photographer and editor Hvhv, Public domain, via Wikimedia Commons

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