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非情なる戦いレニングラード攻防戦

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1941年6月、ドイツはソ連に侵攻
北部を進撃するドイツ軍の北方軍集団はある都市へ向けて進撃していました。
それはレニングラードです。攻防900日と呼ばれる凄惨な攻防戦になりました。

目次

攻略目標レニングラード

1941年6月22日にドイツ軍はヒトラーの指令を受けてソ連に侵攻します。
ソ連の首都モスクワを目指して進撃しつつ、ソ連の主要都市の占領もドイツ軍は進めて行きます。そうした攻略する主要都市の1つにレニングラードがあります。

ロシア革命の指導者であるウラジミール・レーニンの名前が付けられたこの都市は、かつてサンクトペテルベルクと呼ばれていました。
帝政ロシアの首都であったこの都市は、レニングラードと変わってからは工業都市として発展します。

ドイツ軍はソ連にとっての偉人を冠した街であり、ソ連を支える工業都市と言う価値からレニングラードの占領をする事になります。

レニングラード孤立化す

レニングラードへ向かうのは、フォン・レープ元帥の北方軍集団です。
指揮下に3個装甲師団・2個自動車化歩兵師団をはじめ26個師団の兵力があった。
他の軍集団と同じく、頑強な少数のソ連軍に手こずりながらも電撃戦を展開し、1日に70kmもの前進をして補給が追い付かず、一時足止めを余儀なくされる程に北方軍集団は進んだ。

8月21日に北方軍集団の戦車軍団である第41装甲軍団がレニングラードまであと30kmの地点に到達した。
しかし、歩兵師団が追い付かずレニングラードへの突入はできずにいた。

9月、中央軍集団から送られた第39装甲軍団で北方軍集団はレニングラードより東にあるシュリッセルブルクを占領します。東西に南をドイツ軍が囲い、北にはドイツ軍の同盟軍であるフィンランド軍があり、レニングラードは陸上で孤立化しました。

レニングラード包囲される

9月13日にレニングラードの司令官にゲオルギー・ジューコフ大将が着任します。
ジューコフは司令部の人事を刷新し、士気の低い将兵へ銃殺も辞さない程に規律を立て直した。
一方で北方軍集団からは第4装甲集団が引き抜かれていた。
これはモスクワ攻略戦の為に戦車戦力を集めるようにとヒトラーが命じたからであった。

第4装甲集団の引き抜きでレニングラード市街への突入が出来なくなり、包囲に留める事になります。
レニングラードは陥落の危機を脱したものの、今度は包囲されての食糧不足に苦しみます。

当時のレニングラードは攻防戦の前の人口300万人から、防衛軍の将兵に周辺から避難して来た住民が集まり、340万人に増えていた。冬になると燃料不足から極寒での体力低下が餓死と凍死で1カ月に何万人も亡くなります。

死守されたレニングラード

冬の寒さで凍結したラドカ湖を通る補給線でレニングラードは細々とも維持された。
物資不足は解消されないまま、レニングラードは市内で兵器を製造し続けてもいました。しかも製造した兵器をモスクワ防衛など市外へ送り出してもいた。

ソ連軍はドイツ軍の包囲を破ろうと試みますが、1942年1月は失敗し、翌1943年1月はラドカ湖南岸の狭い地域をこじ開ける事に成功した。
この狭い地域に鉄道をレニングラードまで通し、季節に関係なく物資を多く送り込む事が出来るようになった。
1944年1月の攻勢でようやくソ連軍はドイツ軍を押し返し、2月にはレニングラードから150kmまでドイツ軍を退かせた。

攻防900日と呼ぶ攻防戦はソ連の勝利に終わりましたが、勝利の為にレニングラードの市民は飢餓と凍死に瀕しながら、モスクワ防衛の為の兵器製造にも従事させられる非情さに遭いました。ソ連の厳しさが際立つ戦いだったのです。

参考文献
歴史群像欧州戦史シリーズ「ソヴィエト赤軍興亡史Ⅱ・Ⅲ」Gakken
歴史群像2006年4月号「レニングラード攻防戦」文:山崎雅弘 Gakken
MILITARYCLASSICS VOL.34 バルバロッサ作戦 イカロス出版

featured image:Автор фотографии не известен., Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

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