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安土城ランドOPEN記念~織田信長様登場!

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時代を先取り?!名プロデューサー織田信長の仕事。
安土城ランド、今まさにOPEN!

目次

安土城一般公開

織田信長が創り上げた安土城は外観五層・内部7階の天守を頂いており、
その最上階の外壁は黄金色に輝き、金箔で装飾された瓦屋根や鮮やかな朱塗りの下層階と相まって、豪華絢爛そのものだった。

色とりどりの看板やネオンサインなど色彩溢れる現代と違い、そもそも高層建築さえもほとんどなかったこの時代に、
山頂に高々と聳え立った眩いばかりの城を目にした、440年余り前の人々の驚きは如何ばかりか。

この壮麗な安土城で天正十年(1582年)正月、信長は麾下の大小名のみならず、その家臣や城下の庶民にさえも城内見学を許し、入城に際しては大名も庶民もなく一律一人百文の礼金を、信長自らが直接受け取った。

また前年の天正九年(1581年)には、夜に城下の家屋敷の明かりを禁じた上で、安土城天守全体を無数の提灯明かりで飾り、松明を持った配下の武士多数を城下の道や湖上の船に配して、来訪したキリシタン宣教師ヴァリニャーノ一行を歓待した。
その時の光景を信長公記では、城も城下も湖面も光り輝き、言いようもなく面白くてたくさんの人が群れ集まったと記している。

信長の狙い

戦国時代の城は国の防衛拠点として本来は軍事目的の建造物だから、提灯明かりで飾り立たて、ましてや城内を一般民衆にまで公開する事は、常識的には全くあり得ない。
その常識外れをなぜ信長は敢えて行ったのか。

若い頃の信長はうつけ殿と悪評が立つほどの奇行があり、庶民の祭り踊りの中に混じって踊り狂うことが好きだったという。また軍勢の威容を誇るべき出陣で、湯帷子姿で馬上揺られていることもあったらしい。
つまり彼は根っからのバサラなのだ。
このバサラの気性がこれら派手な催しの発想の原点なのに違いない。

しかし信長はただ面白がっていたわけではない。
信長は安土城と共に城下町も整備し、安土山下町中掟書(あづちさんげちょうちゅうおきてがき)という法令を発布した。
これにより楽市楽座はもちろん、山下町住民への諸課税を免除し、幹線道の中山道往還の商人に安土投宿を義務付け、
近江国内の馬売買を安土城下のみに限定するなど、人の集積による経済的発展を重要視した。

そして人集めの最後の決定打として信長が発想したのが娯楽である。
安土城下を理屈抜きで人を魅了する街にすることで、彼は人々を安土城下に呼び込もうとしたのではないだろうか。

名プロデューサー

現代日本では全国で様々なイベントが盛んに企画開催されており、その目的の多くは人を集めることによる経済効果である。
400年以上も前に信長が企画し開催した安土城の催し物は、正に現代のイベントそのものである。

史上初めて天守を持った壮大華麗な安土城が、世の人々の耳目を集めたのは間違いない。
市場経済の仕組みを熟知していた信長がバサラの気質と天才的閃きによって、安土城の奇想天外な利用方法を思い付いても不思議ではない。

それは現代のイベントと酷似していた。
ディズニーランドやユニバーサルスタジオさながらに、人々は期待と興奮と銭100文を握り締めて来城したことだろう。そして入り口には超スーパースター織田信長が、手ずから100文を受け取るほど間近に立っていたのである。
人々の驚嘆と喜びは想像に余りある。

今に例えるなら、世紀の世界的大俳優が自らの監督主演により未曾有の大作映画を撮り、その初上映の映画館でサイン会を行い、そしてそのイベント全体を自分で企画したに近い。
否、天下人に最短距離にいた信長の地位を鑑みればそれではまだ不足かもしれない。
いずれにせよ織田信長は前代未聞のスーパースターであり、名プロデューサーだったと言える。

「安土城の大見学フェア開催! スーパースター織田信長様登場!! 見逃したあなたは絶対後悔する。」

参照
鬼と人と(信長と光秀)堺屋太一著
文化遺産オンライン 安土山下町中掟書 

歴史大好きじいさんです。
天才は時代を先取りします。

※画像はイメージです。

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