幕末の長州と大日本帝国

大日本帝国はなぜ、亡国の戦争に突入ししたのか。
幕末の長州からそれが読み取れます。

長州首脳は攘夷は不可能と分かっていた

攘夷の最急先鋒だった長州は実際に攘夷を決行して米・仏・蘭の艦戦を砲撃し、 その結果、これに英を加えた列強四国と戦争して砲台を破壊占領されます。

一般にはこの敗北で、長州は攘夷が不可能であることを悟ったとされていますが、 実は一部の長州首脳は攘夷が夢物語であると分かっていました。
一部首脳とは、高杉晋作、伊藤俊輔(後の博文)、井上聞多(後の馨)らでした。
高杉は上海へ渡航経験があり、伊藤・井上は英国に留学し、欧米列強の強大さを既に知っていました。

なぜ無謀な攘夷を決行したのか

高杉、伊藤、井上はこの頃すでに藩政に影響力を持つほどの立場にありました。
そんな彼らが無理と承知しながら、なぜ列強相手の無謀な戦争を止められなかったのでしょうか。
それは長州藩全体が熱狂的ともいえる攘夷論に覆われていたからです。

世に聞こえた吉田松陰は攘夷論を長州に広めた学者で、長州の主な攘夷論者はほぼ例外なく松陰の松下村塾で学んでいます。
その頃の日本人は刀や槍で攘夷ができると本気で思っていました。

吉田自身、既に旧式となった大砲の整備で攘夷が可能だと考えていましたし、列強の実態を知りたいと鎖国の国法を犯してまで密出国を企てましたが果たせませんでした。
因みにこれが安政の大獄で刑死した原因の一つです。
つまり松陰ほどの大学者でも最初は外国に対する知識はその程度だったので、一般的な武士たちについては押して知るべしなのです。

そんな中で攘夷論だけが熱狂的に蔓延していきます。
勇ましい考え方は正確な知識を持ち合わせない人ほど受け入れ易く、熱狂や心酔の程度は深くなります。

こんな風にして攘夷の熱が極めて高かった長州においては、首脳級の人物であっても攘夷不可能説を唱えることはできませんでした。
それは即ち暗殺死を意味するからです。それが例え藩主であっても、謀反の形で藩主の首のすげ替えが起こり得ました。

大日本帝国の国民

戦前の大日本帝国ではこの長州と酷似した状況が生まれていました。
満州国建国万歳、南京陥落万歳、日独防共協定締結万歳、そして真珠湾攻撃成功万歳。
またロンドン海軍軍縮条約を締結した首相や、対米戦反対を唱えた山本五十六の暗殺は現実味を帯びていました。

理由はともあれ、5・15事件、2・26事件が起こり、 武力行使によって己が考えを成そうとする風潮が蔓延していました。

全体がある一方向に動きだしてその流れが強くなってしまうと、一部の反対勢力は抗い様がなくなります。
それらは諦めて流されるのでなければ、意図的に抹殺されかねません。
そして全体を構成しているのは国民一人一人でした。

目先の利益や暮らし易さに囚われて、結果的に軍部や右翼を支持し、軍の勇ましい成果を熱狂で受け入れたのは国民だったのです。
それは夷狄どもを追い払うことの勇ましさに熱狂した長州藩士たちとよく似ているのではないでしょうが。

歴史大好きじいさんです。
大衆の力は時として国を亡ぼす方向に働きます。

参考:世に棲む日日 司馬遼太郎著
※画像はイメージです。

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