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日本海軍の戦闘配食とは?

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日本海軍の兵士が戦闘配置で食べていた非常食とは?

日本海軍の艦艇内での食事は、将官・士官・下士官兵のランク分けがはっきりつけられていて、現在の海上自衛隊と比べればはるかに封建的な差別があった。

階級に「将」が付く高級士官が座乗する戦艦や空母、また特に司令部が乗る旗艦ともなると、将官専用の料理を作る雇人と呼ばれる専属の料理人が乗っていたと言う。また大型艦では士官と下士官兵の食事を作る烹炊場も別々で、食材のランク分けもされ、食事をする場所も違っていた。

このように旧海軍艦艇での食事は階級の違いではっきりと区別されていたのだが、それがいざ戦闘配置となると艦長から兵卒に至るまで一斉に全員同じ献立になる。これが戦闘配食である。

海軍艦艇での戦闘配食は三角おにぎり3個と言うのが基本で、これは空母であれ戦艦であれ駆逐艦であれ全部共通している。

海軍の飯は麦と白米の混合だが、あらかじめ次の食事は戦闘配食になりそうだと分かっている時は、白い飯ではなく細切れ牛肉やゴボウ、ニンジンなどを混ぜた五目飯を炊くことが多かった。それが間に合わない場合は白飯に醤油で味付けをした鰹節、梅干し、たくあん、紅ショウガなどを入れて握った。

出来た握り飯は竹の皮に3個ずつ包んで配食するのだが、普段は分隊ごとに飯や汁、副食物をブリキ製の容器に入れて渡すだけだったのが、おにぎりを握るとなると大変な作業になる。

例えば250人乗りの駆逐艦でもおにぎりの数は一回につき750個。1000人乗りの巡洋艦なら3000個。最大で3000人も乗ることのある戦艦大和なら9000個である。

こういう時は烹炊所員だけでなく主計課の士官までが全員そろって軍手をしておにぎりを握ったそうだが、飯を冷ましている余裕などなく、手のひらは火傷で水膨れ状態になったと言う。

甲板上では銃砲弾が飛び交っている最中も、下の烹炊所ではまた別の戦いが行なわれていたのだ。かつて戦艦の烹炊所に居たと言う人の手記によると、敵機の空襲の最中の激しい運動を繰り返す艦の揺れに揉まれながら、腹に響く衝撃も被弾か砲撃音かの区別もつかず、熱気で卒倒した者をまたぎながら、天井の上の事など気にする余裕もない修羅場だったと言う。

海軍では夜には夜食として白玉餅入りのぜんざいが出されることが多かったが、夜間戦闘ともなると呑気にぜんざいをすすっている場合ではなく、こんな時は牡丹餅(いわゆる、おはぎ)が配られた。夜間戦闘中の集中力を維持するためには、あんこの甘味とカロリーが最適。牡丹餅は最強の戦闘食だったのだ。

このほか、空母には艦載機の搭乗員が100人ほど乗っていたが、搭乗員が機上に持ち込む戦闘食も当然、艦の烹炊所で作った。
陸上から飛び立つ大型機の場合はアルミ製の弁当箱に入れた「航空弁当」というものが多かったが、小型の艦載機の場合は片手で食べやすい物という要望が強かったので、長さ20センチ直径2センチぐらいの細巻きの海苔巻きを3本並べて弁当箱に入れる事が多かった。

この場合、海苔巻きは切らずに一本丸かじりしたようである。中に入れる具は梅肉・醤油味の鰹節・紅ショウガなど、わりと刺激が強く食慾が出るようなものが喜ばれた。海苔巻きの一本の片方には梅肉、もう一方には鰹節と言うように、一本の中でも複数の具を入れたと言う。

それに増加食(デザート)としてミカンや桃の缶詰が付くこともあった。これは艦によりさまざまだろうが、搭乗員がいかに大事にされていたかという事がよく分かる。

逆に艦載水偵が艦を離れて離島の水上機基地に滞在した時などは、現地の食事のひどさに参った言う話もある。
ただし、ここで言う旧日本海軍の戦闘配食はあくまでも補給を受けた艦艇内のものであって、決して海軍全体がこんなに恵まれていたと言う訳ではない。

海軍の航空隊も最前線の基地では補給も途絶えがちであり、現地で調達した粗末な食糧を食いつないで連日の激戦を戦っていたのが現実である。

参考文献
阿川弘之 著「暗い波濤」
高橋孟 著「海軍めしたき物語」

※写真はイメージです。

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