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ガダルカナルで日本軍は何故勝てなかったか?

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1942年(昭和17年)8月から1943年(昭和18年)2月まで続いたガダルカナル攻防戦
日本軍はこの戦いで負けました。太平洋戦争の戦局を決定づけた戦いに日本軍は何故負けたのでしょうか?

目次

ガダルカナルへ至る流れ

1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦から日本軍は東南アジアや太平洋地域を広く占領しました。
インドネシアやボルネオなどの資源地帯を占領した事で日本軍は当初の目的を果たし、昭1942年(昭和17年)の春頃には新たな戦略を日本軍は構想する。
陸軍は中国大陸への更なる侵攻作戦、インドへの進軍と西へ目を向けていました。

海軍はソロモン諸島やフィジー諸島などオーストラリアとアメリカの連絡線を断つ目的で南太平洋の島々に目を向けていました。
この海軍の戦略がガダルカナルへ日本軍が行く理由となりました。
ガダルカナルに飛行場を建設してソロモン諸島の防衛を固め、攻略作戦の支援ができる拠点にしようとしていたのです。

陸戦の敗北

1942年(昭和17年)8月に米軍がガダルカナルに上陸して占領すると、日本軍は陸軍部隊の一木支隊900人を送るも全滅
続けて川口支隊5000人も送り込まれますが、撃退されてしまいます。
これは島を占領する1万人の米海兵隊との数の差もありましたが、日本軍は火砲をあまり持ち込めず、火力支援や偵察も不十分なのに歩兵を突撃させたせいです。
その上で、地形を生かして戦い、砲兵も戦車も投入できた米軍

そんな米軍に勝つには海軍が艦砲射撃や爆撃で米軍の前線を攻撃する事でしたが、海軍は飛行場こそ攻撃はしたものの、陸戦の支援はしませんでした。
これは海軍の陸軍に対する意地悪ではなく、米軍やドイツ軍のような前線の近接支援が出来る態勢が日本軍に無かったせいです。
陸軍の前線が何処かなのか、それが分からないと海軍も動きようが無かったのです。

遠い島の戦場

海軍が出来たのは戦艦「金剛」と「榛名」による飛行場への砲撃でガダルカナルから米軍機を飛ばさせず、米艦隊を撃退して制海権を得て陸軍部隊を乗せた輸送船団をガダルカナルに来れる様にする事でした。
陸軍と海軍がバラバラに戦っていたのは一体となって戦う術を知らなかったからです。

これに加えて、片道1000kmを飛んで出撃するラバウル航空隊の負担と消耗、駆逐艦による細々とした補給、南太平洋海戦の頃から問題となっていた日本海軍の拠点であるトラックでの燃料不足など日本軍が力を発揮するには厳しい環境でした。
対して米軍は防衛のみで戦い日本軍ほどに動く必要が無く、補給も多く受け取れ戦う環境は整える事ができました。
日本本土から5000kmものガダルカナル島は遠過ぎる戦場だったのです。

featured image:U.S. Marine Corps, Public domain, via Wikimedia Commons

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