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レイテ沖海戦~西村艦隊の悲劇~

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太平洋戦争のレイテ沖海戦
日本海軍は戦艦「大和」と「武蔵」を中心とした栗田艦隊が出撃、この栗田艦隊には別働隊として西村艦隊がありました。
この西村艦隊には悲劇へと突き進んでしまうのです。

目次

栗田艦隊

1944年(昭和19年)10月11日、米軍がフィリピン中部のレイテ島に上陸
日本海軍は捷一号作戦を発動し、レイテ島の沖にある米軍輸送船団を撃滅してレイテ島での米軍の動きを止めようとします。
この輸送船団を攻撃するのは、栗田建男中将が指揮する栗田艦隊です。

栗田艦隊は3つの部隊に分かれています。第1部隊は戦艦「大和」・「武蔵」・「長門」を中心とした部隊、第2部隊は戦艦「金剛」と「榛名」を中心とした部隊です。
この2個部隊が同じ航路で西からレイテ島へ向かいます。これとは別に、南からレイテ島へ向かうのが第3部隊です。

西村艦隊

栗田艦隊の第3部隊は西村祥治中将が指揮する艦隊です。
その陣容は戦艦「山城」・「扶桑」に重巡洋艦「最上」、駆逐艦「時雨」・「満潮」・「朝雲」・「山雲」と7隻の小規模な艦隊だ。

この西村艦隊が栗田艦隊と離れて行動するのは、戦艦「山城」と「扶桑」が最大速力が20ノットほどしか出ない遅さであった為ともされる。
遅さを考慮してか、出撃するブルネイからレイテへの最短距離である南側の航路を行く事となった。

この西村艦隊を追って台湾から志摩清英中将の第2遊撃部隊こと志摩艦隊が台湾から出撃する。
志摩艦隊は重巡洋艦「那智」と「足柄」に軽巡洋艦「阿武隈」・駆逐艦7隻からなる。
西村艦隊と志摩艦隊が合流できれば「山城」と「扶桑」に十分な護衛を付ける事ができる。

前進する西村艦隊

西村艦隊は10月22日午後3時半にブルネイを出撃した。
24日にスル海で西村艦隊は米機動部隊からの空襲を受ける。この時に「山城」が後部甲板に爆弾が命中するも軽微な被害で済んだ。空襲は27機によるもの1回だけで米機動部隊の空襲は栗田艦隊が多く受け戦艦「武蔵」が沈み、志摩艦隊は駆逐艦「若葉」が撃沈された。

栗田艦隊は空襲の被害から一時反転をするものの、西村艦隊は前進を続ける。
遅い速度ゆえに針路を変えれば遅れを取り戻せないと言う判断もあったのかもしれない。西村艦隊が出した索敵機により、レイテ湾に戦艦4隻などの優勢な敵艦隊が居るのを知っていたが、西村艦隊は突出してレイテへ向かう。

西村艦隊散る

米軍は西村艦隊に対して空母機動部隊ではなく、レイテ島上陸作戦を支援する第7艦隊で迎撃する。
第7艦隊の77任務部隊77.2任務群の戦艦「ウエストヴァージニア」をはじめ戦艦6隻からなる艦隊が西村艦隊を迎え撃つとなつた。6隻中4隻は真珠湾攻撃の損害から復活した戦艦であった。

10月24日夜、レイテ島の南側に近づいた西村艦隊は魚雷艇の襲撃を受けるも損害無く、25日午前2時にレイテ湾の南口であるスリガオ海峡へ西村艦隊は突入します。
午前3時に米駆逐艦7隻が東西二手に分かれて西村艦隊へ雷撃を仕掛けます。
この雷撃で戦艦「扶桑」が爆沈、「山雲」と「満潮」が撃沈、「朝雲」が艦首が切断されてしまう大損害を受ける。
西村中将が居る旗艦「山城」にも魚雷が命中してしまう。

午前3時51分に米戦艦が砲撃を開始、4時19分に「山城」は爆発を起こして沈没する。西村中将は「山城」と運命を共にした。
「最上」は損害の大きさから沈没処分され、「朝雲」は撃沈した。
残ったのは「時雨」だけで、合流出来た志摩艦隊と退却しました。

参考文献
・歴史群像太平洋戦争シリーズVol.9「レイテ沖海戦」
・歴史群像2013年6月号「激突!スリガオ海峡海戦」文:白石光 Gakken

featured image:U.S. Navy, Public domain, via Wikimedia Commons

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