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ソロモン最初の海戦~第1次ソロモン海戦~

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1942年(昭和17年)8月、アメリカ軍はガダルカナル島に上陸するとラバウルにある日本軍第8艦隊が出撃します。
この第8艦隊の出撃によって起きた第一次ソロモン海戦とは、どんな戦いなのでしょうか。

目次

日本軍第8艦隊

1942年(昭和17年)8月7日に、アメリカ軍は日本軍が占領するガダルカナル島に上陸します。
ラバウルの第8艦隊司令長官である三川軍一中将は出撃を決めます。

作戦方針は陣形は一直線に並ぶ単従陣、攻撃は繰り返さず通る一度だけの一航過と決まる。
これは第8艦隊が7月に編成され、7月末にラバウルに来たばかりであったからだ。

艦隊としてまとまった訓練が出来ないまま、第8艦隊は寄せ集めの状態で出撃する事になってしまい、陣形も作戦行動も単純なものになったのです。そんな第8艦隊は重巡洋艦5隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦1隻がありました。

連合国軍艦隊

ガダルカナル島の沖に連合国軍は艦隊を展開させていました。
空母3隻からなる機動部隊と上陸作戦を掩護するリッチモンド・ターナー少将の水陸両用部隊がありました。
ターナー少将の部隊は輸送船団と護衛する艦隊で構成されている。

護衛艦隊は警戒部隊としてイギリス軍のヴィクター・クラッチレー少将が指揮した。その戦力はアメリカとオーストラリアの艦艇の混成で、重巡洋艦6隻に軽巡洋艦2隻・駆逐艦8隻と第8艦隊よりも多い。
警戒部隊は艦艇を3つの部隊に分けてガダルカナル西岸沖に展開させた。

突入!第8艦隊

8月7日14時30分に第8艦隊はラバウルを出港した。
途上でオーストラリア軍の哨戒機に発見されるものの、発見を報せる電報はターナーやクラッチレーへは遅れて届いた。
8月8日も敵偵察機に発見されるものの、第8艦隊に水上機母艦があると誤った情報を送ってしまい、ターナーは第8艦隊がソロモン諸島に水上機基地を作ろうとしていると誤った判断をしてしまう。

敵の情報伝達と判断の誤りによって、第8艦隊はガダルカナル近海まで進撃できました。
第8艦隊は各艦に味方を識別する白い吹き流しを付けさせ、照明弾を積んだ水上偵察機を発進させた。
23時30分に三川は全軍突撃を命じ、第8艦隊は敵艦隊への攻撃を開始する。

対する連合軍艦隊の動きは鈍かった。ターナーとクラッチレーや海兵師団長のバンデクリフト少将などガダルカナル攻略戦の指揮官が輸送艦「マコーレ」で会議をしていたからです。
連合国軍の艦隊は指揮官不在のまま第8艦隊との戦っていたのです。

第8艦隊の勝利

連合国軍の艦隊は数の優位がありながらも、3つの部隊に分かれていたせいで各個撃破される形となりました。
一時は魚雷を回避する為の行動で艦隊が二手に分かれてしまうものの、混乱する事無く第8艦隊は戦闘を続行し、9日午前0時23分に三川は全軍引き上げを命じた。

第8艦隊は敵の重巡洋艦4隻を撃沈し、損害は4隻の巡洋艦に損傷を受け、海戦で沈没した艦は無く一方的な勝利に終わった。単純明快な作戦方針が勝利を掴んだと言えます。しかし、輸送船団への攻撃が出来なかった事は当時も現在も非難や論争の的となりました。

featured image:Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

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