有名な航空自衛隊ブルーインパルスの誕生には、戦記ファンなら誰でも知っている、ある帝国海軍軍人が大きく係わっています。
ブルーインパルスの誕生
F86Fセイバージェット戦闘機導入からまだ4年しか経っていない航空自衛隊の航空幕僚長に任じた源田実は、 1959年、米空軍サンダーバーズの日本公演を見て、航空自衛隊アクロバット飛行チーム構想を持ちます。
それまでにジェット戦闘機操縦の修得向上が目的で米空軍に留学した経験のあるパイロットにより、非公認のアクロバット飛行が行われた事もありました。
しかし自衛隊内部には、「基地上空の曲技飛行は隊規則違反している」とか、 「国家公務員による国費を使ってのアクロバット飛行などは不謹慎」などの批判も根強くあり、休止状態になっていました。
源田は戦闘空技の研究、自衛隊に対する一般国民の理解啓発、隊員の士気向上、そして非公認下での事故死などでは名誉ある措置が取れないなどの理由を持って、 そんな批判の中で積極的に部隊編成に取り組み「空中機動研究班]として制式発足させました。
源田実中佐とは?
源田実は中佐として真珠湾攻撃の実施部隊・第一航空艦隊の甲航空参謀に任じ、作戦の立案から部隊編成、訓練、そして作戦実施まで中心となって係わり、司令官が南雲忠一中将だったにも拘らず「源田艦隊」と陰で呼ばれるほどその影響力は大でした。
しかし源田本人は元々戦闘機搭乗員として軍人人生を送るつもりだったので、同期・大西龍治郎(後の神風特攻隊創始者)に説得されるまでは、参謀になる為に必要な海軍大学は受験しませんでした。
また戦争末期に編成された第343航空隊司令に任じられた時、司令ともなると実際に飛ぶ事はない為に第二搭乗配置が通例のところ、「現場搭乗員として第一搭乗配置にしろ」と海軍省人事局に強談判しました。
指揮官が飛ばなくては戦闘機搭乗員の部下が付いて来ないというのが源田の信念でした。
戦闘機乗りが本当に尊敬するのは、操縦の上手い人間だけだという、搭乗員達の心の機微を知っていたのです。
源田サーカス
大尉時代の源田は、九〇式艦上戦闘機3機編隊の編隊長を務め、アクロバット飛行を行っていました。
当時、軍航空機を作る為に一般国民から寄付が盛んに行われました。
そんな航空機を海軍では「報告号」と称し、その献納式で源田編隊はデモンストレーション飛行を行っており、その華麗な飛行で「源田サーカス」と高い評判をとっていたのです。
この様に源田の本質はどこまでも戦闘機乗りであり、飛行機の操縦が何よりも好きだったのです。
時を経てジェット飛行機の時代になり、自身は航空自衛隊・航空幕僚長という高位にありながら、時代を超えて彼はやはり一人の戦闘機乗りでした。
かつて自分が繰り広げた「サーカス」を航空自衛隊のジェット機が繰り広げるのを見る源田実の胸中は、どの様なものだったのでしょうか。
※画像は一部イメージです。
思った事を何でも!ネガティブOK!