この話は、私が10歳の子供の頃から祖父母から聞かされた話です。私の両親は戦後に生まれた団塊の世代、祖父母は95歳になる今でも健在です。
広島や長崎という被爆都市以外にも、空襲は日常的にあったそうです。祖父母は奈良県の五位堂という場所に住んでいました。
祖父と祖母は別々の地で戦争を体験したそうです。
祖母は地元に残って野良仕事に出かけてゆき、祖父は広島で日本軍の看護にあたっていたそうです。終焉とともに戻ってきた祖父は祖母と結婚して今に至ります。
のどかな奈良県五位堂
奈良県五位堂というところは、結構な田舎で田畑の残るのどかな風光明媚な場所です。村の人は閉鎖的で、よそ者を嫌う文化がねずいていました。
男子は徴兵制度で村を離れたために、残された女性と子供だけで田畑仕事に精を出していたそうです。
時々空襲警報とともに、日中にアメリカ軍の飛行機が飛んできたそうですが、野良仕事中の祖母たちはすぐに林や竹やぶの中に身を隠して、収まりをまったといいます。
ところが、ある日のこといつもは上空を飛んでいるだけの飛行機から何かがたくさん降ってきたそうです。それは小さな破片で、その破片の周りを逃げ惑うようにして避難したそうです。
遠く広島の地
一方でまだ出会ってもいない祖父は遠く広島の地で、怪我で負傷した日本軍の手当をしていたそうです。
祖父は看護や医師免許はありませんでしたが、当時農民であった祖父は日本政府の政策により看護を割り当てられていたそうです。
負傷してきた仲間を看護して時には手術の現場に立ちあうこともあったそうです。
腕を切断したり、麻酔なしで手術したり。
そうして、なぜか故郷に帰ってきた時には、ぶくぶくと太って帰ってきたそうです。
終戦を迎えて
やがて祖父母は戦争の終焉とともに結婚して家を建て、子供を設けて農家として暮らしていました。ある日のこと祖母が体の痛みを訴え初めました。
病院の診察でアメリカ軍がまいた武器の破片が体内に埋待っていることがわかったのです。
今でいうところの役所で申請するとき、窓口の役人がこういったそうです。
戦争当時、「武器の破片が降ってきた瞬間の写真が必要です」と・・・嘘のような本当の対応です。
祖母はその後講演会をする機会がありましたが、そこでも、戦争中に爆弾の破片が落ちてきました、体に入りました、そんな写真どうやって撮るんですか?と皮肉を交えて話していました。
戦争体験は仕方がないとして、戦後の役所の対応に恐怖を怯えたのは私だけでしょうか?
思った事を何でも!ネガティブOK!
コメント一覧 (1件)
初めまして、ハワイアンさん。
こちらで、『本音・・・ある特攻隊員の話』を寄稿させて頂いた、MKと申します。
とても印象深いお話ですね。
窓口係の台詞から、当時の日本の状況が見えて来るようですね。
そんな言葉を吐かねばならない、窓口係にも苦悩があったのだろうなと想像してしまいます。
そちらの話ももちろんですが、お祖父さんの、医学知識も無いまま手術助手をしていた話からも
なかなか戦中戦後の凄まじさを感じ取れます。
沖縄には「介輔制度」なるものがありましたが、それよりも杜撰な状態で、
人の生死に関わらざるを得なかったのだろうなと思えてきました。