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人を救うのが坊主の道・・・残酷民話「坊主斬り」

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自らを犠牲にして他者を助ける、というタイプの美談は洋の東西を問わず数多く伝えられている。
西洋だと童話「幸福な王子」が有名だろう。

貧しい相手を助けるためとはいえ、自分の食べ物を意に反して取り上げられたらどうだろうか?
しかも、自分がすでに食べた物を、腹を裂かれて取り出されたら…

目次

血でぬるぬるの蕎麦を小川で洗って食う

児童文学作家の松谷みよ子らが編纂し、70年代半ばに出版された『日本の民話』シリーズの中には、時おり総毛立つような話が収録されている。今回の話も、そのうちの一つだ。

ある飢饉の年のこと、寺の和尚が近くの庄屋に法事のため招かれた。飢饉であるにも関わらず庄屋の家には豊富な食糧があった。大好物の蕎麦を供されて、和尚は夢中になってかき込んだ。

その帰路のこと、峠にさしかかると飢えた二人の野武士が現れた。野武士たちは和尚のふくれた腹を見て「法事の帰りか、なんぞ食うて来たな」と問うた。
「その通り、蕎麦を山ほど食べた」と答えると「坊主、許せ」。言うが早いか、野武士の一人は後ろから和尚を切りつけた。悲鳴を上げて倒れる和尚。
野武士たちは彼の腹をかっさばき、蕎麦をかき出すと笠に乗せ、小川へ行って血を洗い食べたという。

自己犠牲?いや、そうではない

自らを犠牲にして飢えた者を救うという話は仏教説話などにもうかがえる。
老人に食べ物を提供しようと思ったが、あげられる物がないので自らの身を焼いて与えた兎の話。あるいはインドの王子が餓死しかかった虎の親子に自分を食べさせた「捨身飼虎」の話。

自分が死ぬことで他者が救われるという点で、これらの説話と「坊主斬り」には共通性がなくもない。しかし「坊主斬り」に表れているのは自己犠牲の尊さなどという生易しいものではないだろう。
生きるために相手を殺し、腹を切り開いてまで食べ物を奪うという酷薄さがあるのみである。

そもそも和尚は、主体的に死を選んだわけではない。いきなり殺され、死後も遺体を傷つけられた、純然たる被害者である。
野武士たちについて言うなら、筆者は彼らの行為に対して「生きるためには仕方なかった」「良い悪いの問題ではない」などと逃げを打つつもりはない。どれだけ飢餓状態にあろうとも、人を殺すのは悪である。

和尚の霊は何を思うか?

もし死んだ和尚が霊魂になったとしたら、自らの死をどう受け止めただろうか。各種の説話を思い出して、自分も仏に仕える身としての役割を果たしたのだと納得するだろうか。それとも、あの野武士どもは許せん、全員地獄行きじゃと激しく呪詛しただろうか。
飢饉の時代にあって、自らもまた飢えていた彼なら、自分の死を冷静に解釈することなどできなかったと考えるのが自然かもしれない。

もう一つ気になるのは、なぜこの民話が現代にまで伝わっているのかということである。
和尚が斬られる現場を目撃した者がいたのだろうか。あるいは、野武士たち自身がこのことを話したのだろうか。
汲めども尽きぬ謎を秘め、「坊主斬り」の民話は今なお語り継がれている。

※画像はイメージです。

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