スペイン対イギリスの海戦が、 大坂冬の陣の戦局に大きく影響していたかもしれません。
その因果関係を考えていきたいと思います。
砲撃戦
大阪冬の陣で、徳川家康は強大堅固な大阪城を攻めあぐねます。
そこで大砲の連続一斉砲撃により、 実質的な大坂側リーダーである淀君の怯えを引き出して和睦が成立し、その条件となった堀の埋め立てが大阪城落城させ、引いては豊臣家滅亡に結び付きました。
この20数年前、地球を席捲して世界一の大帝国であったスペインの無敵艦隊を、 英国海軍は艦砲による砲撃戦で打ち破ぶり、スペイン帝国の凋落が始まります。
英艦隊の勝因の一つは本格的な砲撃戦導入でした。
それまでの水上戦では、船をぶつけて戦闘員が敵船に乗り移り、白兵戦で勝敗が決まりました。
その流れを踏襲していたスペインに対し、 英海軍は、射程距離の長い最新式の大砲を多数装備した船足の速い新鋭船で、 組織的な砲撃戦を展開したのです。
そして大砲を組織的に使ったこの砲撃戦の要素を取り入れたのが家康でした。
三浦按針(みうらあんちん)
三浦按針は本名をウィリアム・アダムスという、英国人航海士です。
関ケ原の合戦の頃に彼の乗船していたオランダ船リーフデ号が日本に漂着し、 欧米を含む世界情勢や軍事などの知識を買われて、彼は直参旗本として家康に召し抱えられました。
当時の家康の対外政策は、対日貿易を望むスペインとオランダの、 どちらを貿易相手に選ぶのかの岐路に立っていました。
最終的に徳川幕府はキリスト教を禁止してスペインを排除し、 オランダを唯一の対外貿易国に選ぶのですが、その政策決定の過程で、 三浦按針がオランダ有利のアドバイスをしただろう事は想像に難くありません。
欧州のオランダ・イギリス、スペイン
なぜなら欧州においてはオランダ・イギリスとスペインが戦争状態にあり、 その大きなターニングポイントである、英国海軍がスペイン無敵艦隊に勝利した海戦で、 10年後に三浦按針と名乗ることになるウィリアム・アダムスは、 英国艦隊の弾薬食糧の補給部隊に従軍しており、スペインは正に敵国であったからです。
そしてそんな経歴を持つ彼は、英艦隊の砲撃戦を目の当たりにしているはずでした。
家康の軍事顧問として働いていた彼が、 大阪冬の陣での砲撃戦に関係していたと想像することにそう無理はないでしょう。
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