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真田信繁(幸村)と硫黄島の因縁めいた糸

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三百数十年の時間を隔てて、二人の人物が関係している。
それが事実であれ偶然であれ、真田信繁と栗林忠道の間に、そんな繋がりがあったなんて、これほどロマンティックな話はありません。

真田信繁(幸村)は大阪冬の陣で、大阪城の最大唯一の弱点である南方向に出城の真田丸を築いて、攻めかかろうとする徳川側、前田利長の軍勢を翻弄します。
この真田丸の攻防を端緒とした徳川勢の混乱に乗じ、真田信繁を中心にした豊臣方は、井伊、松平、藤堂などの緒隊を散々に打ち負かし、家康に苦汁を飲ませます。
過去においてこの真田信繁とその父・昌幸は、2度、徳川の大軍勢を翻弄して家康を苦しめています。

その戦法は、いわばゲリラ戦です。自己に有利な地勢に罠を張り巡らせ、不利な場所に大挙して押しかける敵勢を混乱させて打ち取る戦法です。

真田家は弱小の土豪だった為にこの様な戦い方を工夫して身に付け、真田家独特の戦さ法として昇華させたのでしょう。
信繁と父・昌幸は死にますが、信繁の兄・信之は家康に臣従して上田藩藩主となり、後に松代藩に転封になって真田家は明治まで存続します。

時代は飛んで太平洋戦争末期、硫黄島では日本軍と米軍の壮絶な戦いが繰り広げられます。

硫黄島守備隊は、全長28kmに及ぶ地下壕を島中に張り巡らして兵力の導線を確保し、要所にトーチカや砲台を設置して島全体を要塞化して米軍を迎撃しました。

それまでの日本軍の島嶼防衛は水際防御でしたが、硫黄島では敵艦船への砲撃も含め水際での応戦はせず、上陸後敵が内陸部まで侵攻するのを待って、有利な地勢を利用し地下壕の要塞からの攻撃で敵を排除するという常識外の作戦でした。

■ 壕を制圧する火炎放射戦車M4A3 シャーマン。
Life Magazine photographer Mark Kauffman (1922-1994) (Official USMC photograph) [Public domain], via Wikimedia Commons

結果は当然の如く日本軍守備隊全滅で終わるのですが、この作戦によって米軍は多大な損害を余儀なくされました。

敵を自軍の懐へ誘い込んで翻弄する作戦は、真田家が得意とした攪乱戦法と通じるものがあります。
そして、この作戦を指揮した栗林忠道中将は、真田家が藩主として治めた松代藩の戦国時代から続く郷士の家の生まれでした。

真田信繁と栗林忠道。
この二人に私は単なる偶然以上の、何かしらの因縁めいた糸を感じてしまいます。

歴史大好き爺さん
「事実は小説より奇なり」といいますが、歴史の事実には正にこの言葉が当てはまる事があります。
だから歴史は面白いのです。

※画像はイメージです。

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コメント一覧 (1件)

  • 真田日本一の兵、古(いにしえ)よりの物語にも此無き由

    薩摩島津家記録

    栗林忠道中将は、アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった。

    アメリカ海兵隊公式記録

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