哀れな最期を迎えた、千葉邦胤の足跡をたどる。
関東の名門千葉氏
千葉氏は平安時代の名将・平良文の流れを汲み桓武平氏の一族とされる名門豪族あった。源平合戦では、源頼朝が伊豆にいたころから味方し、鎌倉幕府創設の立役者である。その後、足利尊氏に味方し鎌倉幕府の討幕に参加し、存在感を増し、「関東八屋形」の一員に名を連ねるようになる。しかし、関東が永享の乱や享徳の乱などで混とんとしてくると、千葉氏の内部にもひずみが生じ始め、いったん嫡流が途絶えた。そこで古河公方や関東管領・上杉氏の争いが絡んでくると、千葉氏は以前ほど力を持たなくなっていった。
邦胤の叔父である千葉利胤は、後北条氏の娘を妻に迎え、関係を強めていったが若くして他界した。利胤の息子・親胤は、側近の原氏の専横に対抗するために、古河公方と手を組んだが、逆に幽閉され殺害された。そして、邦胤の父・胤富に家督が回ってくることとなった。
誕生から家督相続
1557年(弘治3年)千葉胤富の子として誕生する。
胤富は後北条方として、安房の里見氏や、里見氏の家臣である正木氏と戦っていた。越後の上杉謙信を撃退するなどとして、何とか生き延びたものの、後北条氏の力なくして、千葉氏はもはや命脈を保つことができない状態となっていた。邦胤には双子の兄・良胤がいた。
良胤は後北条氏との距離を置く立場をとっていたため、織田信長に内通したいたため、家臣の原氏や父・胤富によって幽閉さえる運命となった。その後、脱出して奥州へ逃れたという説があるが、事実ははっきりしていない。
良胤が幽閉され、逃亡したため邦胤が千葉氏の家督を継ぐこととなった。
家督は継いだが家臣同士が反目中
邦胤は家督を継いだが、安房里見氏の力は無視できない状態になっていた。1571年(元亀2年)、里見氏の攻撃を避けるため、佐倉妙見宮で元服の儀が行なわれた。
1577年(天正5年)、父・胤富が死去する。父の死を契機に、23歳になっていた邦胤は本格的に表舞台に出ることになった。しかし、家臣同士が反目していたため、千葉氏は決して一枚岩ではなかった。後北条氏からの影響から逃れることが出来ず、邦胤は北条氏政の娘を正室に迎えることになった。千葉氏はかつての輝きを取り戻せないでいた。
信長を「無礼」と切り捨てる
関東でごたごたしている間に、畿内に大きな動きがあり織田信長が台頭してきた。快進撃を続ける信長は、美濃や畿内を制すると、関東へと目を向けるようになった。そして、1582年(天正10年)の甲州征伐によって武田氏を滅ぼした。武田氏が滅んだことで、信長の手が関東へと及んでくるようになる。
甲州征伐後、信長は家臣の滝川一益を関東へ派遣された。信長はこの時、千葉氏を味方につけて関東統治をスムーズにしようと考えており、書状に加え名馬を1頭、邦胤のもとへ送ったとされる。邦胤は信長からの書状を見るなり「無礼な奴め」と激怒した。邦胤は、信長が名門・千葉氏に対して「態度がでかい」と捉えたのである。その後、邦胤は信長から送られた名馬などを送り返している。
最期
1585年(天正13年)正月、邦胤は多くの家臣を城に呼び寄せて正月の宴を開いていた。そこで、饗応の配膳を仰せつかった近習が配膳をしている間に。2回も「オナラ」を発してしまった。1回ならまだしも、2回目のオナラになると邦胤は近習を厳しく叱りつけた。
その近習は負けじと口答えする。
邦胤から叱りつけられたことを逆恨みし、数か月後の5月1日、邦胤が寝所で寝ていると、オナラをした近習に殺害されて命を落とした。
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