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敬虔なクリスチャンが戦争に

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私の祖父の話です。
祖父は長崎県の五島列島出身の漁師で、敬虔なクリスチャンでした。
その長女の叔母から聞いた祖父の話をします。

争いごとが基本的に嫌い、そして物に執着しないタイプの人で、漁師の日々は毎日食べれるものがあればそれでよい。
それ以上のものは必要ないという考え方で、家はとても貧しかった。

祖父の逸話として、自宅に三毛猫のオスを飼っていたそうなのですが、同じ漁師仲間から「三毛猫のオスは船乗りには縁起がいいので、これでくれないか?」と一升瓶の焼酎を差し出され交渉されたとのこと。

三毛猫のオスとは十万匹に一匹産まれるかどうかの貴重な猫で当時でも貴重な猫です。
その価値を知っていた祖母は反対したのですが、祖父はすんなり引き換えたそうで「大事にしてくれるなら、それが一番。」と言っただけだったそうです。
またとても足が速くて、長距離選手として活躍もしていました。

時は第二次世界大戦真っただ中。
叔母の話では赤紙が届き、召集されるとなってからの祖父は楽しいお酒から悲しく、悔しいお酒に変わりました。
「人を殺すことになる。」それが祖父にとって意に反することです。

召集された祖父は、東南アジアの僻地に赴任させられました。
祖父は戦争中、祖母には何の連絡も入れなかったようで、祖母は覚悟し、また叔母も祖父が帰ってくるとは思いませんでした。

それから終戦後、佐世保の港に復員輸送船が着くという知らせが入り、そこには帰って来ないと思っていた祖父が乗っていたのでした。
帰ってきた祖父が話し出したのは、「港に着いたら、米兵が身ぐるみはがしにかかるから、貴重品はすべて海に捨てろ」という誰かが言い出し船の中はパニックになり、恩給も何もかもすべて海に捨ててしまったのですが、港に着いて待っていたのは米兵ではなく、皆の帰還を待っていた家族でした。

その時に、祖父は自分が貰った貴重な恩給をすべて捨てたことに後悔したと言ったそうです。
祖父が戦争のことを話したのは、後にも先にもこの一つだったそうです。

自宅に戻った祖父の顔は、召集される前の穏やかな顔ではありませんでした。
祖父の顔は目つきが鋭く光り、いつも背中を気にしていたそうです。
背後から敵が来ないか、それが恐怖だったのだと思います。

足が速かった祖父は、とにかく生き延びること、家族のもとへ戻ることだけを考えて敵地を走り回り、そして、戦争が終わると同時に、船を待ち無事に戻ってこれたようです。

戦争が終わりしばらくしても、写真を撮られることをすごく嫌がってしました。
自分でも顔つきが違うのがわかっていたのでしょう。

そして、私の母が生まれたのが昭和27年。
そのころはだいぶ顔も元にもどり、戦争に行った人とは思えないほどやさしい祖父に戻っていたそうです。

戦争のときに片言の英語を覚えていた祖父は、母によく冗談交えて英語を教えていて、母が「どこで習ったの?」と聞くとその答えはありませんでした。

そして毎日どこに祈るのか、ある方角を見ては祈りを捧げていたそうです。
きっと人を殺めたのでしょう。

その後悔は祖父が一人で背負い、何も言わずに胸にしまって生涯を終えたのだと推測ではありますが、叔母や母はそう言っています。

※写真はイメージです。

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