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北海道の精鋭!帝国陸軍第七師団の戦い(前編)

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日本帝国陸軍が北海道において編した師団が第七師団です。
今回はその第七師団のはじまりから、日露戦争での戦いについて紹介します。

目次

屯田兵から師団へ

明治時代のはじめ、日本陸軍は主要な部隊を鎮台と称して仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本に置きました。
対して北海道には開拓と防衛の担う屯田兵が居ました。
1874年(明治7年)に失業した士族の救済政策としても始まった屯田兵制度
北海道は人口が少ない事もあり、鎮台を置く事は無く、この屯田兵が北海道の守りを務めました。

1894年(明治27年)に日清戦争が勃発、翌年の明治28年に屯田兵を集めて臨時第七師団が編成されました。
この臨時第七師団は前線へ出る事無く、東京で待機中に終戦を迎えます。
更に翌年の1896年(明治29年)に正式な第七師団が編成される。

明治のはじめに6万人だった北海道の人口が1886年(明治19年)には30万人へと増え、1898年(明治31年)に北海道でも徴兵令が施行された事と、陸軍の編成も1887年(明治21年)に鎮台が師団に改編された時代の変化がありました。

日露戦争で援軍として出征

1904年(明治37年)から始まった日露戦争
第七師団は当初は北海道に留まりましたが、旅順要塞を攻略する乃木希典大将率いる第三軍の援軍として出征します。
遼東半島の南端にある旅順
旅順にはロシア軍の軍港があり、艦隊がありました。

軍港を守る為に旅順の港の北にある清国が作った要塞を更に強化した要塞でロシア軍は日本軍を迎え撃ちます。
二度に渡る総攻撃で旅順要塞を攻める日本軍でしたが、多くの犠牲を出して撃退されてしまいます。
列強の一国であるロシアに日本が本当に勝てるのか?と世界の注目を集める旅順の攻防戦
そんな戦場に第七師団は向かったのです。

203高地の戦い

第七師団は旅順への第3回総攻撃から戦闘に参加します。
旅順要塞の203高地攻撃の主力となった第七師団は兵力が消耗した第一師団と共に11月30日から攻撃を開始するもののロシア軍の抵抗が激しく、高地頂上を占領しても奪還された。

28センチ榴弾砲による援護を受けながら12月4日にから攻撃が再開され、翌日5日には203高地からロシア軍を退却させ、完全に占領しました。
203高地の占領で旅順港に停まるロシア艦隊を全て観測できるようになり、日本軍は地上からの砲撃でロシア艦隊を撃破する事に成功します。
旅順のロシア艦隊撃破に繋がった203高地の勝利は1万7000人近くの戦死者を出す厳しい戦いでした。

旅順の戦い以後は第七師団は第三軍の一員として、日露戦争の陸戦で最後の決戦となる奉天会戦に参戦
ロシア軍の背後に回り込むように突進する第三軍で第七師団も前進を続ける戦いをして、勝利に繋げました。
日露戦争において第七師団は戦局に大きく影響する戦場で戦っていたのです。

※画像はイメージです。

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