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北海道の精鋭!帝国陸軍第七師団の戦い(後編)

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日本帝国陸軍が北海道において編した師団が第七師団
今回は大正時代からノモンハン事件・太平洋戦争での第七師団についてです。

目次

大正時代から昭和の動乱期へ

日露戦争後の第七師団は大正時代に南満州に駐屯したり、シベリア出兵に出動しするなど大陸での任務に就く事が多くなりました。
時代は満州事変や日中戦争が起きる昭和の動乱期に入ります。
第七師団は新たな部隊の編成に関わります。

中国大陸では師団の後備歩兵4個大隊の人員で独立混成第七旅団を編成
南樺太の防衛を担当する樺太混成旅団を編成
戦争の長期化と拡大に第七師団も無縁ではありませんでした。

ノモンハン事件

1939年(昭和14年)5月に始まったノモンハン事件
満州国とモンゴルの国境を巡る紛争が日ソによる局地戦争に拡大してしまいます。
当初は第二十三師団だけでソ連軍とモンゴル軍と戦っていた日本の関東軍は、満州に駐屯していた第七師団から増援部隊を出す事を決め、第七師団からは3個の歩兵連隊が出動した。

第七師団の歩兵第二十六連隊はハルハ河西岸への渡河する攻撃作戦に参加しました。
しかしソ連軍は戦車や装甲車で反撃に出て、第二十六連隊は部隊を分断させられ大損害を被り撤退を余儀なくされます。

ソ連軍が大攻勢に転じるとより苦戦を強いられます。
特に第二十八連隊の梶川大隊はノロ高地の戦いでは6人に減るまで陣地を守り通す戦いをした。
第二十三師団をはじめ日本軍部隊は壊滅してノモンハン事件は敗北に終わりました。

太平洋戦争で激戦地に部隊を送り出す

ノモンハン事件後、第七師団は北海道へ帰還
1941年(昭和16年)12月に開戦した太平洋戦争で第七師団は師団から部隊を編成して前線へ送り出しました。
歩兵第二十八連隊から編成された一木支隊はガダルカナル島へ。
一木支隊は米海兵隊に占領された飛行場の奪回を目的に、夜間の突撃をしかける。
対する米軍側は一木支隊の上陸を察知していて陣地で待ち構え、火砲や戦車もある米海兵隊の火力によって突撃は阻まれます。

支隊長の一木清直大佐をはじめ支隊の多くが戦死してしまいました。
歩兵第二十六連隊と工兵第七連隊から編成された北海支隊はアリューシャン列島攻略作戦に参加し、アッツ島を占領します。
その後、戦力の増強を受けてアッツ島とキスカ島を守備する北海守備隊に改編されます。
1943年(昭和18年)にアッツ島の部隊は玉砕してしまいますが、キスカ島の部隊は海軍の艦隊によって撤収する事ができました。

ノモンハン事件に続き、送り出した部隊が激戦地で散華した第七師団
師団自体は太平洋戦争の終わりまで北海道に駐屯し、北海道への連合国軍上陸に備えた状態で終戦を迎えました。
第七師団は動かざる師団とも言われましたが、激戦を戦う部隊でもありました。

※画像はイメージです。

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