亡父の手記から

一年前に、父が他界しました。
脳梗塞から5年の闘病を経ての死は緩やかでしたが、その喪失感は未だに埋めがたいものがあります。
銀行マンとして真面目に勤め上げてからはまさに晴耕雨読のような日々。
母を大切にし、娘と孫たちをとても愛してくれました。

その父がパソコンを使うようになってから、メールだけでなく、自身の人生を振り返ったこともまるで書き散らすように残していたのです。
自分史とでもいうのでしょうか。
実家近くに住んでいる妹がパソコンを整理し、残された遺稿をまとめてくれたのです。
その中には、母ですら知らなかったことがたくさんありました。

父は昭和16年の11月生まれ。
日米開戦の僅か3週間前に誕生しています。
終戦の年には4歳近くになっていました。
戦争末期、実家近くに爆弾が落ちて玄関の壁に金属片が刺さって穴が開いたことや、叔母に抱かれて防空壕に飛び込んだというその頃の話は断片的に聞かされたことありましたが、それほど多くはありませんでした。
そんな父が、母も聞いたことがなかった幼い日々のことを綴った一文がありました。

_____今の時代と違っているのは、地域の人たちが子供たちのことを皆が知っているということであろうか。

僕の家の近くには○○川が流れている。
戦時中であったので、母親は戦闘機の燃料となる松根油の原料を求めるために、勤労奉仕に出掛けていた。
幼い僕と、従姉妹の咲子と連れ立って、僕の母親を探しに出掛けた。
僕も咲子も、三歳くらいだったと思う。

〇〇川の土手を迷子になっているところを、僕の家の近くの畑に来る人に見つけてもらった。
僕がどこの子供であるかを知っていたので、ボッチ(藁でできている籠のようなもの)に一人ずつ入れて、天秤棒で担いで、我が家に連れ帰ってくれたということでした。
三歳の二人連れではいつ川で溺れ死んだか分からない。

その従兄弟の咲子も、咲子の妹の弘子も、浜松大空襲の後に蔓延した赤痢に罹り、薬の乏しい中の治療に勝てずに他界した。
そういう僕も、終戦を迎える前に赤痢、疫痢、ジフテリヤを同時にやって、隔離病舎で過ごした。
何回も死んでいる人生だ___。

その話は母も聞いたことがなかったらしく、驚いていました。
親戚が多い家だったのですが、その咲子・弘子という姉妹のことも聞いたことがなかったようです。
その文章を読んだ時、冒頭は戦時中の、ちょっとだけほのぼのした情景と言えなくもありませんが。
「何回も死んでいる人生だ」という言葉には、衝撃を受けました。

軍の飛行場があった浜松では洋上からの艦砲射撃や市街地が焼け落ちた大空襲があったことは、昭和50年代初頭の小学校の社会科で習いましたが、そのあとに赤痢などが流行ったというのは当時を生きていた人の記憶にしか恐らく残っていないでしょう。
昭和生まれの私たちにはまだ間接的に見聞きしてきた太平洋戦争につながる記憶が残っていても、平成生まれの息子たちには想像を超えてる時代の話と感じるようで。
好々爺であった父の昔に想いを馳せ、いろいろな話をしました。

今年で終戦から75年。

それ以上の年月を生きている人たちは漏れなく戦中を経験しているわけですが、その数は年々減っており、そして人々は辛い時代の話はしたがらないものです。
気づかれないままに埋もれていく昔の話は沢山あるのだろうなぁ、と思っています。
それでも、その時代からの有形無形の形見を、私たちは貰ってきました。

父は、当時はそう珍しくない5人兄妹の次男です。
その戦中戦後に生まれた5人のうち4人が大学に進学しています。
しかもその4人が地元を離れて、東京と関西に下宿をしていたのです。
祖父は教師で、その家は昔からの大きな農家でしたが、貧しい時代のことで、奨学金を駆使していたとはいえ、よくそれだけ進学させられたものだと思っていたのですが。

ある時、その謎が解けました。
祖父の弟が二人、戦時中に出征しており、二人ともが南方で戦死しています。
幼い頃に遊びに行った祖父の家のお座敷にはその若い二人の写真が並んでいたのを今でも鮮明に覚えています。
母親である曾祖母にはその二人の遺族年金があったのだそうです。

5人の孫を育てながら、曾祖母はその年金を貯めて学資にしてくれたのだと聞かされました。
それがあったからこそ、父と兄妹らはそれぞれに人生を切り開くだけの教育を受けることができ、父は銀行に勤め、次世代の私たちに十分な教育を施してくれたのです。
もしもそれがなかったら。

それ以前に、戦争末期の混乱期に父が早逝していたら___父が母に出会うこともなく、私たちは生まれていなかったかもしれない。
あの時代は、今よりもたくさんの生命の危機があり、ほんの紙一重の差で人の命は覆っていたのかもしれません。
だからこそ、父は「何回も死んでいる人生だ」と振り返っていたのでしょう。

彼が生きていてくれたことに感謝し、そしてその人生が77歳まで続いたことにはもっと感謝しています。
贅沢を言えば、もっと長生きして孫たちの行く末を見守ってほしいと思っていましたが。
父が残してくれた大切なことを、その遺稿とともに息子たちに伝えて残していかなければ、と考えています。

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