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軽巡洋艦「名取」撃沈!小林英一大尉の決断と命令?

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平和な今の私たちの生活の中では、集団における何かの決定は多数決が最善なのが常識です。
しかし戦場において生死に係わる行動の決定では、その常識が当てはまりません。
もし、部下の多くが無茶だと反対したとして、それを呑んで判断していたら・・・・

目次

大日本帝国海軍・軽巡洋艦「名取」撃沈

昭和19年8月18日、名取は軍事物資・人員の輸送任務中に、フィリピン・サマール島東方約556kmの海上で、 米潜水艦ハートヘッドの魚雷攻撃により撃沈されました。
乗員500余名のうち、艦長・久保田大佐以下多数が艦と共に没し、それ以外の乗員は脱出しましたが、 最終的に205名が3隻のカッター(漕・帆走できる全長9mの木製短艇)に収容されました。

偵察の日本海軍機が救助艦派遣の通信文を投下しましたが、 それは3日間待っても来ず、彼らは自力での脱出を決意します。
が、あるのは少量の食糧のみで、食飲料水や必要な磁石・六分儀など航行用具もありません。
そんな条件下で500km以上の距離を、帆走と人力のみで漕破することなど非常識の何物でもありません。

あるのは1日2枚の乾パンとスコール頼りの飲料水のみ。
熱帯の太陽光は、暑さを通り越して痛みを感じるほどに強烈です。
逆に夜には南洋とはいえ、濡れた身体から風が体温を奪い、身を寄せて寒さを凌がねばなりません。

その苛酷な環境は、全長9mの短艇1隻に70名近くがひしめき合うことの不快感を増幅させ、 こんな脱出行など不可能だという思いと相まって焦燥感や絶望感が蔓延し始めます。
しかしそんな極限状態の中、炎暑を避けて昼間は衣類を日除けにして休み、10時間の夜間漕走を続け、13日後にフィリピン・ミンダナオ島スリガオに到着、195名が生還しました。

■ 軽巡洋艦 名取Unknown author / Public domain

小林大尉の決断と命令

戦後まで生き残った一人、通信長で大尉だった松永市郎氏はこの時を振り返って 「多数決で動いていたら、命はありませんでした」と述べています。

この時の最上級官は航海長・小林英一大尉が、3隻の短艇隊長として指揮を執りました。
この航海の命令に対し、最初は部下の多くが無茶だと反対しました。

元漁師の下士官はその経験から、遭難時は動かず待つのが常識とも進言します。
しかし大尉は断固として命令を遂行させました。

でも単なるごり押しではありません。
海軍では行方不明の場合、名誉ある戦死と認定されるまで1年以上かかります。
多数の生存者が海軍機により確認されている名取については、戦死した者も含め乗組員全員が行方不明者として扱われる可能性がありました。

「行方不明扱いになりたいか」と大尉は問いかけ、条理を尽くして部下を説得します。
部下の答えは否でした。
自分ばかりか、艦長以下戦死した将兵が行方不明扱いになっては申し訳が立たないと、命令に応諾しました。
そして「行方不明になるな」を合言葉に全員が一丸となった結果、奇跡の生還が成ったのです。

小林大尉が決断を命令せず多数決で行動を決めていたら、果たして生還は果たされたのでしょうか。
それは今となっては確認しようもありません。

しかし大尉の決断が200名になんなんとする人命を救った事は隠れもない事実です。
海の恐ろしさを知り尽くした海軍軍人であった松永氏だからこそ、この決断が生死の分かれ目だったと確信したのでしょう。

歴史大好きじいさんです。
戦場では、平時の常識が必ずししも良いとは限りません。

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