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悪霊の憑依事情を考える

悪霊・幽霊とされるものが、人に取り憑いて操作するのは、比較的メジャーに語られる怪奇現象の類型である。
しかしながら、実際に悪霊により身体を支配されたという事例は多くはない。

1975年に悪魔祓い(エクソシズム)を受けた事で後に映画化もされたアンネリーゼ・ミシェルの事例においても「声」をきっかけに悪魔の存在を認識したのは彼女自身、つまり、悪魔・悪霊はあくまでも別人格である。
そして悪霊憑きの事例を検索しても、悪霊憑きとされる人間による犯罪よりも先に、悪魔祓いをしたつもりで対象を殺傷した事件の方が先にヒットするのだ。

目次

憑依のメリットとデメリット

もしも悪霊が知性ある存在で、生きた人間の魂を上書きできる程の力があるならば、暴力的なエクソシストには気付かれないように、静かに人間的に振る舞うだろう。そもそも、人間に取り憑くという行為で、悪霊にどんな良い事があるのだろうか? 取り憑かなければ、エクソシストに目を付けられる事もないではないか。

ここで、1つの仮説が生まれる。
「悪霊が人間を操作する事は、副次的なものに過ぎないのではないか」という仮説である。
この仮説の意味するところは、
悪霊が人間に取り憑くのは、やむにやまれぬ理由からである」という事である。

日本語における「霊」は、「魂」と概ね同一の概念である(キリスト教的概念の「聖霊」とは根本的に違う事に留意されたし)。
魂は、肉体に在る時も、肉体から抜け出た時も呼称は変わらない。だが霊は、悪霊にせよ幽霊にせよ、生き霊ですら、肉体から離れた状態に限定される。死霊に肉体がないのは当たり前だが、生き霊は何故肉体から離れるのだろう。

言い方を変えよう。
自由に肉体から離れて生き霊として活動出来れば、随分楽しそうではないだろうか。意中の人の寝顔を眺めたり、映画館に入ったり、道に迷った時に高いところから辺りを見渡したりできる。だが、生き霊の伝承には、常に極めて強い恨みや想いが伴う。とすれば、霊になるには何か超えるべき困難があるという事だ。その高いハードルは、一体何なのか?

それは「痛み」であると考えられる。

痛みとファントムペイン

ファントムペインという言葉がある。
これはれっきとした医学用語で、日本語では幻肢痛という。
人間は、アンプタ、つまり医療的処置により手足などを切除した時、なくなった筈の部分に長期に渡り痛みやかゆみを感じる事がある。

脳は、その部位があろうがなかろうが、動かすための制御信号を送り、そのフィードバックを処理する。失われた部位からのフィードバックに、他の神経からのノイズが混じれば、脳はこれをどうにか解釈する。
その解釈の1つが「痛み」である。

従って、この痛みは気のせいやいわゆる「精神的な」ものではなく、神経刺激としての現実の痛みである。
ハードウェアの不具合が、ソフトウェア上に影響を与えたものが幻肢痛、とも言える。

腕一本でそれなのだ。身体全体を失ったら、どうだろう?
想像するだに恐ろしい。
悪霊の感覚を支配するのは、すなわち細胞の隅々までを襲う猛烈な幻肢痛である。

悪霊は憑依できない?

人間の精神は痛みには耐えられない。生きた人間が時に耐えるのは、脳内物質の作用からだ。
だが、霊はむき出しの神経のようなものだ。霊が正気でいられるのは一瞬の事で、すぐに苦痛に精神が崩壊する。
後は、それを和らげる事しか考えられなくなる。当然、本能的に肉体を求めるが、その肉体は既に先住民がいる。

満身創痍の悪霊に、生命力の満ちた魂が圧倒される訳がない。だが、極稀に弱った魂、育っていない魂の肉体に、悪霊は何とかもぐり込む。
肉体は1人乗りだ。複数の魂が入っても、正常な制御は出来ない。
何より、悪霊は既に魂に戻れぬ程に崩壊している。仮に元の魂を追い出せたとしても、その後に待つのは肉体制御の失敗、急激な死である。
「痛み」とそれに左右される行動。これらが、悪霊が静かには取り憑いていられないという仮説の根拠である。

魂と肉体

創作物などでは、幽霊を穏やかなものと描写されがちで、「幽霊として生き続ける」という描写がしばしば成される。
だが、魂は肉体と共にある。その法を超えれば、それは生き物ではない。

肉体と引き離されたままに在り続ける苦痛や無念を理解すれば、徒に悪霊に怯えるべきではなく、憐れみ慰めるべきものと気付くだろう。それが理解出来れば、例え悪霊憑きを目撃したとしても、それを本人を傷つけてでも強引に追い払うなどという発想には至らぬものだ。
知る事は光を照らすようなものなのだ。

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