疎開先の生活でみたもの

語り継ぐ

母の実家は佃島でしたが、親戚の秩父に疎開していました。

母方の私からすると祖父にあたりますが、海軍に入りましたが身体が問題で帰されてしまい幸い軍隊にはいきませんでした。
元々お米やを営んでいた祖父でしたが、サイパンが陥落したあたりから空襲に見舞われる事になり、親戚に疎開をする事となったようです。

私も一度その親戚の家に言った事がありますが、秩父線の秩父駅から車で一時間くらいかかる本当に山の方でした。お店は一軒もなく本当に田舎という感じです。

実は秩父で有名なのは秩父うどんで、主食も実は米ではなくうどんなんですね。
秩父ではうどんを打てないとお嫁にいけないというぐらい、うどんの作り方を学んでいる人が多かったので全くそうした事が出来ないお婆さんは相当苦労したようです。

秩父は山なので夏場今とは違って相当冷えるんです。米の育成があまり得意ではない土地柄、小麦が発達したというのが事実のようです。こうした慣れない疎開生活で、丁度そのころ私の母がお腹にいた時期だったらしいのです。

お婆さんはそうした昔の辛い記憶をあまり孫に言う事はありませんでした。でも一回だけ話をしてくれて空襲を鮮明に覚えていまし。秩父の山から東京の方が毎回、真っ赤に燃えているのが見えたそうです。

特に東京大空襲の時は昼間のように真っ赤になり、自分の家がどうなっているか気になったようです。実は父も鮮明に覚えていて、千葉にいたようですがB29が通過してしばらくして真っ赤になったと言っています。赤という火の色が人間の記憶に焼き付き、炎の色が恐怖感を与える戦争の傷が祖母の記憶にも残っているようです。

それと祖母が一番厳しかったのは食べ物についてです。悪戯などの私の悪事は許してくれますが、食べ物を残す事は許してくれませんでした。相当食べ物には困っていたと思います。

幸いお米屋さんなので米には困らなかったのですが、それでもおかずがないので海が近いので貝を拾いに行ったりそれこそ人海戦術で食料をかき集めたようです。母も門前仲町駅で片足を失った元兵士がアコーディオンで寄付を呼び掛けているのを見たそうです。そして進駐軍の記憶。日本は敗北し、現在があるという事ですね。


Writing by 逆流性胃腸炎に悩む年ごろ