ふと投げかけられた「神社って何を祭ってるの」という素朴な疑問にだいぶ広域に「何でも」と答えた。
その場では日本各地の珍しい神や御神体を祭る神社を調べて終わったが、せっかくなので「ではなぜそんな神社が存在し得たか」を、日本の民俗宗教『神道』と世界的に見ても珍しい独特な宗教観に触れつつ整理していく。
神社に祀られるもの
神を祭り祭事や儀式を行う場所…キリスト教でいう教会や仏教でいう寺が、神道では神社である。神社で祭る神を主祭神と呼ぶが、神社の主祭神は教会のように一柱ではない。元人間であったり動物や無機物であったり、文字通り神社の数だけ主祭神も存在する。地方に点在する「そんなものも祭ってるの!?」と驚愕するような神社を紹介するのも吝かではないが、どうせならより深層に焦点を当てようという事でここでは割愛する。
なぜこのような多様な神を祭る神社が存在するのか。そこには日本という土地に根付いた神道の考えと宗教観が関係してくる。神道に関しては以前別の紙面で各国の宗教観についてまとめた際に触れたが、おさらいも兼ねて改めて次章で整理していく。
神道の整理
神道とは「身の回りの物や事象一つ一つに神が宿る」という考えの民俗宗教である。天照大御神(アマテラスオオミカミ)を筆頭に様々な事象を司る神が存在する。キリスト教やイスラム教のような唯一神を信仰する一神教に対し、八百万の神がいる神道は多神教に分類される。
万物に神が宿る信条という点ではタイなどに伝わる「精霊信仰(アニミズム)」と通ずるものがある。また神道には他宗教のような経典などはなく、地方にはその地に根付いた慣習や儀礼が存在するが、それらは統一された内容ではない。その地方ごとに祭る神やルーツが違えば当然なのだが、このように神道は他の一神教とは違う「対象を定めず『神を信仰する』という共通概念の集合体」のような出で立ちをしている。
硬い説明文で綴ると馴染み無く聞こえてしまうが、
「長く使った物には付喪神が宿る(正確には付喪神は神ではないが)」
「米一粒にも神様がいるのだから食べ残してはいけない」
「干ばつや大雨などの天災は神が怒って起こしている」
などの文言は今までで一度は聞いたことがあり、子どもの頃素直に信じたり従っていた者もいたと思う。
『物や山一角、米粒に宿る神』という存在に対し「そういうのもいるよね」と違和感なく許容する日本には、その概念にも似た神道信仰がしっかりと浸透している。
日本中に珍しい神を祭る神社が多く建っている経緯は国土と国民に根付いた「多神に対する許容」という、神道の一番の特色が影響しているといえる。この特色や神的存在、ひいては宗教信仰に対する認識は、実は海外から見ても中々に珍しい。次章ではこの日本独特の宗教観をさらに見ていく。
日本の神道に基づく宗教観
国家が自国の法律で保護している宗教を国教という。これにより、大体の国では国民が信仰する宗教は一つに統一される。国教が一神教であれば、その国の宗教観は唯一神を中心に添えた確固たるものとなる。外国で国土内に教会と寺が建つ国は(タイなど決してゼロではないのだが)中々見かけない。
では教会に寺に神社まで建つ日本の国教はどうなっているのだろうと見てみると、日本には厳密には国教が定められていない。かつては神道を国教に据える動きもあったが、その性質から「神道は道徳」とし憲法で『信教の自由』を定めた。
これはとても噛み砕くと
「神を信じるも信じないも、どんな神様を信じるかどんな宗教を信仰するかも個々の自由。その代わり周りの誰かの宗教や神を侵害するのは罰当たりだからダメよ」
という認識と方針になる。
これを踏まえると、日本という国は八百万の神だけでなく「他国の宗教や神」に対しても存在を許容していることがわかる。そしてそれらを信仰する者に対しても、たとえ祈る神がキリストだろうと仏陀だろうと米粒だろうと、その者の「何かを崇め、畏怖し、信仰する心」を尊重する。その姿勢は確かに概念や道徳に近く、この他宗教に対する寛容な姿勢こそ、日本の持つ宗教観の根幹ともいえる。
余談だが、逆に外国には神社がないかというと実はしっかり存在する。
神道に基づいた神社もあるが、中には建った経緯に上記の「神道を国教に据えようとしてた日本」の当時の大きい声で言いにくい思惑などが裏にあったりするものもあるので、この辺りも興味が湧いたら調べてみるといい。
※画像はイメージです。
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