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記憶にある配給と疎開

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太平洋戦時中について語れば・・・幸い私の母型の家計はお米屋さんだったので、ご飯に関してはやや恵まれた環境にいたようです。
佃島で戦時中に過ごし配給制度についても色々思い出があったようですが、母が特に子供のころの砂糖の配給について語った事を思い出します。

戦時中ですから僅かな量ですが、とりあえず砂糖の配給があったようで、当時子供だった母は、例にもれず甘いものが大好きだったので砂糖に関しての記憶が鮮明に残っていたようです。
最初の頃には配給もそこそこ行われていたようですが、サイパン陥落後ぐらいから徐々に南方資源が入らなくなると、砂糖もともかく配給される物が少なくなっていき暮らしもかなり苦しかったようです。

そしてその頃から、田舎へと疎開をする事になり、辛くも空襲を逃れたようで、貧しかったものの取り合えずそれなりの暮らしができたようでした。

配給以外で母の戦争の記憶といえば、むしろ戦後に門前仲町駅などで、孤児や戦時で傷を負った兵士の無残な姿、あるいは進駐軍の記憶が鮮明に残っていたようです。
子供ですから、お菓子をくれる米兵にはあまり悪い印象を持っていないようで、ある意味感謝さえしているようでした。

しかし軍に招集されたおじいさんは、国が進駐されてしまった屈辱を米兵を直接見る事で味わっていたようで、心中は穏やかではなかったようですが、物資の豊富さや体格などをみるとやはり勝てる相手ではないと改めて感じされられたと話してくれたのを覚えています。

戦争では近所ではかなり亡くなる人も多かったようですが、我が家は無事戦中を生き延びた運のいい家庭です。

※画像はイメージです。

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