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日本文学者「ドナルド・キーン」教授の戦争体験

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日本では太平洋戦争が始まると敵の言葉として英語を禁止し、鬼畜米英とか言ったり、青い目のお人形を燃やしたり、野球用語もアウトやセーフを使わなかったりと、今では笑い話になっています。
が、アメリカやイギリスでは、むしろ戦争をしている相手を知るため、捕虜の尋問や暗号などの解読のために優秀な学生をリクルートして大急ぎで日本や日本語の専門家を養成することをしています。
欧米流の学徒出陣として日本の学徒出陣とはえらい違いだという人もいます。

そして戦後はこういう養成コースで日本語を勉強した方々が、学者や外交官などとなって活躍していることは忘れてはいけないと思います。
1922年ニューヨーク生まれのドナルド・キーン教授は、日本学者の第一人者であり、著作も多く高名な方です。

By Aurelio Asiain from Hirakata-shi, Osaka, Japan (Flickr photo Donald Keene at his Tokyo home) [CC BY-SA 2.0 ], via Wikimedia Commons

日本に興味を持ったきっかけは、大学時代に中国人の友人が出来て漢字を教えてもらい、アーサー・ウェイリー訳「源氏物語」との出会いから、だんだんと日本語と日本文化に興味を持たれたといいます。

ところが1941年に日本軍の真珠湾攻撃の後、アメリカ海軍が日本語を集中的に教える語学校について聞き、その学校へ入学して11か月で日本語を習得、ハワイで翻訳や捕虜に尋問に携わる情報将校となったのです。

この頃の話は、キーン教授の自伝や色々な著書に載っています。
また、インタビューなどでも優しいお声で語られたのを聞いたことがあります。

ユーモアに満ちていて、とても面白いお話なので「日本との出会い」中公文庫からご紹介しますね。

キーン教授は、後の同志社大名誉教授で祖父から3代続いて日本で宣教活動を行った宣教師一家の出身でもある。
オーティス・ケーリ氏と共に戦艦ペンシルベニア号に乗り込んでアリューシャン列島のアッツ島へ、次にアダク島のアメリカ軍基地へ送られたということです。

そこで会った最初の捕虜は北海道の小樽出身の兵士で、ケーリ氏は小樽生まれでありました。
ケーリ氏は大喜びで、「あの小学校の側の下駄屋さんは、今でもありますか?」というような尋問を行ったといいます。

その後、キーン教授たちはハワイのアメリカ軍基地に戻って日本軍兵士の捕虜の尋問や翻訳をされたのですが、文学青年であったキーン教授は型通りの尋問の後、「今、日本でどんな小説が流行っていますか?」とか、クラシック音楽の話題などで盛り上がったようです。

なので日本人捕虜の方が、「あの、地雷についてとか聞かなくていいんですか」などと気を使って自分から話したそうです。
キーン教授は、この頃に生涯の友人が何人も出来たとおっしゃっています。

また終戦直後に東京に1週間ほど滞在してハワイで尋問した捕虜の家を訪ねて行き、息子さんが生きていると伝えて回ったということです。

キーン教授は、戦後はコロンビア大学に戻り、日本文学研究の道を究められています。
大学で日本文学などを教えるだけでなく、英語で日本文化や日本文学を伝えた功績は多大です。

それに著名な日本文学者たちとの交流も深く、そのへんの日本人よりも日本に詳しく日本文化への愛情を感じるのは当然で、今では日本国籍を得て永住していらっしゃるほどです。

戦争は大嫌いとおっしゃるキーン教授の戦争体験の一部は、やっぱりほのぼのとしたものだなあと思いました。

※画像はイメージです。

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