焼け野原の飲んだくれ

これは私の亡くなった、母方の祖父の父。要するに私の曽祖父のお話。
祖父や親類のおじさん達がお正月集まった時に何度もしてくれた、曽祖父の武勇伝です。

私の曽祖父は横浜で呉服屋さんを営んでおりました。
時代背景と立地柄で、お商売も軌道に乗っていたようです。
お家には丁稚奉公さんを数名雇っていて、お家の庭には池があり沢山の錦鯉を買っていたそうです。

そんなお家で育った私の祖父は4人兄弟。
祖父は長男だったのですが小さい頃から小児まひを患っており、足が不自由だった為戦争には招集されなかったそうです。
祖父は周りの人達が戦地に向かうのに、自分は役に立たなかった事を恥ずかしく思っていたそうです。

でも、曽祖父はそんな息子に対して『恥じることは全くない』と後の為にお商売のイロハを祖父に叩き込みで覚えさせたようです。

戦争がますます激化する中で雇っていた奉公人さんも戦地へ出向いたり、故郷へ疎開させたり家族だけが家に残ったようです。
食べるものもなかなか手に入らなくなってきたある日、曽祖父は池に泳いでいた錦鯉を捕まえて捌いて近所に配って回ったそうです。

そして、自分たちも池で飼っていた鯉を食べて飢えをしのいだそうです。
祖父曰く、小骨も多いし臭みが強く決して美味しくはなかった、けどお肉系はほとんど手に入らなかったからご馳走だったと、新たに育てていた鯉たちを見ながら話をしてくれました。

1945年5月29日横浜で大規模な空襲があった。
それまでも空襲はあったそうですが、その日の空襲は規模が大きく中区にある自宅は焼夷団からくる火災に飲み込まれ、近所一帯はに飲み込まれたそうです。

家族は皆避難した為無事でしたが家は全焼、周りを見渡しても残っている建物もなく、周り一帯焼け野原になったそうです。
祖父は仕事先で空襲にあったため、なかなか家に戻れなかったらしく家族が無事なのか不安でいっぱいだったそうです。

街は混乱しており、帰るのに時間がかかったらしいです。
そして、やっとの思いで戻ってきた、祖父の目に飛び込んできたのは

焼け野原で樽酒を開けて飲んだくれていた曽祖父だったそうです。

お店も焼け、お互いにお商売が出来ないと踏んだ曽祖父と酒屋のおじさんが焼け野原で飲んだくれてどんちゃん騒ぎをしている姿だったそうです。
楽しそうに飲んだくれていた曽祖父の姿は、まるで家が焼けた人には見えなかったと祖父は言います。

やけになっていたのか、こんな時だったからこそ、気分を盛り上げていたのかは誰も聞いたことがないので分かりません。
こんな状態で酒盛り出来る曽祖父は豪快な人だと母方の親類は皆口を揃えて語ります。

戦後はきちんと店を建て直し、呉服屋を軌道に乗せた曽祖父。
豪快な人だった事にはまちがいありません。

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