太平洋戦争当時の帝国陸海軍、足らない技術を補うために選んだのは最悪の方法だった。
ウクライナの海上ドローン
ウクライナ戦争ではウクライナ軍の海上ドローンが活躍している。
画像で見るその形は旧日本海軍の特攻兵器・震洋を彷彿とさせる。
どちらも基本はエンジン推進の小型船舶なので形は似ていて当たり前だが、当然のこと海上ドローンには人間は乗っていない。
イ号1型無線誘導弾
昭和19年、帝国陸軍は無線誘導ロケット弾を研究開発していた。
爆撃機の母機から空中で投下されたロケット推進の誘導弾を、追尾する母機から無線誘導で目標に到達させる。
この無線誘導弾はイ号1型と呼ばれ、下記の甲・乙2種類があった。
弾頭(kg) | 射程(km) | 速度(km/h) | 母機 | |
---|---|---|---|---|
甲 | 800 | 4 | 550 | 四式重爆撃機 飛龍 三菱キ67 |
乙 | 300 | 11 | 600 | 九九式双発軽爆撃機 川崎キ48 |
その欠点は射程の短さと、何よりも不完全な無線誘導装置にあった。
ロケット弾が目標に到達するまで無線誘導を行うためには、母機が敵に相当接近する必要があり、重鈍な母機の大きな被害が予想されたのである。
前線将官の苦衷
戦局が悪化する中、出撃する帝国海軍の航空機や艦船の未帰還が増加し、昭和18年に入ると、前線の潜水艦乗務将官から、魚雷を改装した人間魚雷による特攻の意見具申が出始めた。
制海権を失った海域では、敵航空機や駆逐艦などによる対潜哨戒が厳しくなり、作戦中の潜水艦が哨戒網にかかる事が多くなった。
潜水艦は敵に発見されると海中で静止し、敵の爆雷が至近距離で爆発しない事をただ祈るしかない。
つまり座して死を待つのみという場面が多発していたのである。
その悔しさはいかばかりか。
どうせ死ぬのなら無為に死ぬより敵と刺し違いたい、道連れにしてやるという気持ちになるのは軍人ならば無理からぬ事であった。
艦船や航空機がなければ正規の戦闘が全うできない海軍や航空隊では、味方戦力の激減を目の当たりにして焦燥感を募らせる将官の一部に、特攻の考えが芽生えていたのである。
桜花を考え出した男
桜花のアイデアを考え出したのは一人の少尉である。
彼は昭和3年に海軍に入り、日中戦争で偵察員として陸上攻撃機に搭乗していたが、一旦予備役に入った後に再度招集され、南太平洋の前線でラバウルを拠点に輸送機機長を務めた。
昭和19年、厚木基地の輸送機部隊に転属になった少尉は、人間が操縦する飛行可能な大型爆弾の案を同隊司令官に意見具申した。
出撃する搭乗員の戦死が激増するばかりの、戦果が上がらない最前線での戦局悪化の中で、少尉が戦友たちの死に強い無念を抱いただろう事は想像に難くない。
無駄に死ぬのは悔し過ぎると、もっと確実に敵を葬る方法を彼は必死の思いで模索したのではないか。
少尉は日中戦争当時、敵機前方にロケットで投げ網を打ち上げて撃墜する方法を考え付くなど、元々から奇抜なアイデアマンだったらしい。そんな男が無線誘導弾の研究を知っていたとすれば、その未完の無線誘導技術を、人間で補う事を発想しても不思議ではない。
少尉がこの狂気の兵器を発想した実際の経緯は伝わっていない。
しかしこの少尉が桜花のアイデアを説明するため、海軍航空技術廠技官を訪れた時の逸話が残っている。
自分が搭乗するための飛行ロケット弾を是非にも造ってほしいと少尉は熱望した。
この否倫理的兵器への拒否感を持っていた技官たちも、少尉のこの赤心を無下に拒否する事ができなかった。
桜花の開発はこうして始まった。
どうすれば命中率が上がるのか
銃撃、砲撃、爆撃、雷撃といった攻撃では敵に近づけば近づくほど命中率は上がる。
しかしそれは自分が死ぬ危険が増大する事でもある。
ごく単純な話、遠隔操作で敵に当たるように弾丸の飛翔を制御できれば、自分の危険は最小限に抑えながら命中率を上げられる。
ドローンがその発想から生まれてきたものだとすれば、旧陸軍の無線誘導弾はまさにドローンの一種だと言える。
しかし無線誘導の技術が実用段階には全く至っていなかった。
亡国の瀬戸際で、祖国のためには己の生命など惜しまないという赤誠の将官たちは、余りの焦燥や危機感ゆえに未熟な無線誘導装置を自らの生命に置き換えるという、狂気の方法に至ってしまったのであろう。
※画像はイメージです。
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