なぜ家康は江戸を選んだのか?

天下人になってどこでも好きな土地に本拠を置ける家康は、江戸の地を選びました。
その理由を考察していきます。

江戸幕府誕生

北条征伐後の1590年、家康は秀吉により関東へ移封されました。
これにより所領石高は約150万石から250万石に増えましたが、先祖代々の土地や家臣共々の血と汗と涙で獲得した、所領の全てを召し上げられたことは前代未聞の痛恨事でもありました。

天下人・秀吉に逆らうべくもなくこれに従った家康は、しかし1600年の関ケ原合戦に勝利し、1603年に幕府を開いて名実共に天下人となりました。

江戸の地は湿地だった

家康が入植した当時の関東平野は全くの未開地でした。
現在、千葉県銚子から太平洋へ流れ出る利根川は、今と全く違う流路で南下して江戸湾(東京湾)に注ぎ込んでおり、その下流域の広大な土地は田畑になり得ない荒れた大湿地帯でした。

そんな湿地帯に突き出た高台にかつて太田道灌が築いた後、放置されたまま荒れ果てた城跡を家康は居城としました。
城の間近にまで日比谷入り江の海が迫り、周囲遥か彼方まで荒涼とした湿原が見渡せました。
元々この移封に強い不満を抱いていた家臣たちはこの風景に接し、言葉もないほどに失望したといいます。

しかし家康は彼らの失望をよそに、逆に関東平野の大改造に着手します。
その最たるものは、利根川の流路付け替え工事でした。
利根川の排水を江戸湾から銚子側の太平洋に流すことで、湿地を農耕可能な土地に改良するのが目的でした。
この事業は開始から60年後にやっと完成する、途方もない大土木工事でした。

なぜ江戸だったのか。

1600年には実質的天下人だった家康は、好きな土地に本拠を構えることができた筈です。
事実、先祖からの三河、苦労して獲得した遠江・駿河などからは、秀吉に封じられていた各大名を、関ケ原合戦の論功行賞で家康は全て移封させています。
家康はそのいずれにも望めば入ることができたのです。

にもかかわらず彼は荒地の江戸に拘りました。それは関東平野の将来性に気付いたからでした。
広大な湿地は改良で肥沃な田に変わると家康は読みました。

天下統一が成った日本では、服属した武士たちに与える土地はもうなく、彼らの欲心を満たす別の方法が必要でした。
秀吉が強引な朝鮮出兵した理由の一つはこのことだったと推測できます。
この海外侵略の失敗を目の当たりにしていた家康は、国内での石高増加によって、武士たちを満足させようとしたと考えられます。

工夫して領内の土地を改良すれば石高が増える。
もう隣の土地を奪うことで豊かになる時代ではない、と自ら範を示して彼らに教えようとしたのではないでしょうか。

武家諸法度の制定など強力な幕藩体制で抑え込む一方、努力しだいで家が栄える方法も示す。
家康はそれにより平和で永続的な徳川の世を築こうとしたに違いありません。

※画像はイメージです。

歴史大好きじいさんです。
天下人の選択には必ず理由がある筈です。

参照:日本史の謎は地形で解ける 竹村公太郎 著

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