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江戸城の秘密「埋蔵金」

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みなさん、現在の皇居がもとは徳川幕府のあった江戸城だったのはご存じですよね。
ここ、けっこう謎めいた話が多いんですよ。

そもそも家康が江戸城を築いたきっかけは、豊臣秀吉が小田原征伐で後北条氏を滅ぼしたあと、関八州を徳川家康に与えたからなのです。
その頃の関東は北条早雲後が築いた小田原城が中心で、今川氏の駿府城とかもあったのですが、なんで江戸になったかといえば、色々な理由があります。

ひとつは家康が今まで敵だった後北条氏の小田原城に入るのを秀吉の手前遠慮した説とか、その頃の江戸は鄙びた漁村だったということなんですが、じつは水運の中心地だったという説が最近強力になったそうです。

俗説としては、小田原城を攻めているときに、秀吉が家康を小田原城を見下ろす山の上の陣地に誘って一緒に連れションをしつつ、「これからは江戸だにゃー、江戸に城を作りゃーせ(尾張弁のつもり)」と、秀吉はそれまで長浜城とか姫路城とか作ったし、後には大阪城や伏見城も作ったくらいなので、築城とか立地にも詳しいんだと、自分の知恵を見せつけるがごとく家康にすすめた話もあります。

とにかく、江戸はそれまで太田道灌が築いた館のような小さな城だったのですが、家康がその後天下を取ったために、天下普請として大名たちに手伝わせて巨大な城に変貌したのでありました。天下普請とは大名に費用を負担させて工事をさせるのですから、いくらでもお金をかけて作れるわけで、幕府の威信をかけた巨大な城郭は、3代家光の頃にやっと全部完成したということです。

江戸城だけでなくて、お堀を作って出た土で埋め立て地を作りと、江戸の街も整備されていき、城下町と言うよりも世界的な大都市となったんですね。 それに城と言えば天守閣ですが、家康、秀忠、家光の頃は、代が替わるごとに作り替えていたそうです。

天守閣はかなり無理をして建築された木造建築なので、何十年に一度は解体修理が必要とは言え、けっこう贅沢なことをしていたのです。
しかし4代家綱の頃の明暦の大火で焼失後は、松平信綱らの英断で戦もないのに必要なし、天守閣を建てる費用は江戸の街の復興に充てられて再建はされず、その後も天守閣のない城となり、土台だけ再建したものが残されています。

この天守閣跡ですが、村井益男著「江戸城」に、興味深いことが書いてあるんです。
明暦の大火の後、加賀100万石の前田家が任されて、焼け落ちた天守閣の後始末と新しい天守台が作られたときのこと。
天守は金蔵を兼ねていたために、石垣を取り除くと火事で溶けた金銀の塊がたくさん出土したということです。

最初はこれを拾って本丸へ届けたが、次から次へ何千俵も出てきたために、きりがない、工事が遅れるじゃないかと老中に断って、なんと金銀の塊、砂金などをそのまま埋め戻してしまって、そのうえに新たに天守台を作ったということなんです。

この頃はまだ幕府には家康以来の金銀が豊富にあった時代なので、ありうる話だということですが、よく話題になる、どこにあるかわからない、あるかどうかもわからない幕末の徳川埋蔵金よりも信ぴょう性のある話ではないでしょうか。
検索すると江戸城天守閣を再現する運動があるようですが、天守台跡を発掘したら建設費用が捻出できるかもしれませんね。
そして、実はこれが徳川埋蔵金だったりとか。

※画像はイメージです。

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