1942年10月、リビアを制圧したドイツのアフリカ軍団はイギリス軍から猛攻撃を受けます。エジプトへ迫るアフリカ軍団を阻止すべくイギリス軍が反撃に出たエル・アラメインの戦いです。第二次世界大戦で北アフリカ戦線の戦局を変えたこの戦いとは?
1941年7月までの北アフリカ戦線
1940年9月にイタリア軍がイタリア領のリビアからイギリス領エジプトへ進撃した事から北アフリカ戦線の戦いが始まります。
イギリス軍の反撃にイタリア軍は敗北、イギリス軍にリビア東部をも奪わました。
1941年2月には、イタリアの同盟国であるドイツがエルヴィン・ロンメル中将が指揮するドイツ・アフリカ軍団を支援に送ります。
ロンメルが北アフリカに到着すると、北アフリカ戦線は激化する。
イギリス軍を中心とした連合国軍と、ドイツ軍とイタリア軍の枢軸軍がリビアの砂漠で押して引いてを繰り返す戦いを続け、1942年6月に枢軸軍はリビア東部のトブルクを占領し、枢軸軍はエジプトへ進める位置に到達した。
モントゴメリーの登場
リビアを奪取し、エジプトへの進撃しようとしている枢軸軍
イギリス軍は1942年8月に、北アフリカの前線を指揮する第8軍の司令官をオーキレンク大将からバーナント・モントゴメリー中将へ交代しました。
モントゴメリーは着任すると第8軍に訓練をさせます。
これは新たに来たニュージーランドやオーストラリアの英連邦軍の部隊やギリシャ軍などの同盟軍を北アフリカの砂漠に慣れさせる必要がありました。兵器の面では既にアメリカから提供されたM3グラント中戦車に続いて、最新のM4シャーマン中戦車が北アフリカに到着し、イギリス軍戦車部隊が強化されつつありました。
こうして、モントゴメリーは十分な戦力と物資が集まるまで待つ事にします。
イギリス首相チャーチルはモントゴメリーへ、打って出てロンメルと戦うように促しますが、モントゴメリーはチャーチルに言われても準備万端となるまで動こうとしません。
第1次エル・アラメインの戦い
6月末に枢軸軍がトブルクを占領すると、ロンメルはその勢いでエジプトへ侵攻する事を決心した。エジプトの東部にあるアレクサンドリアを目指すとロンメルは目標を示した。
激戦の後で休む事無く枢軸軍は進撃を再開した。
6月29日に枢軸軍はエジプト西部のメルサ・マートルを攻略する。ここでもロンメルが得意とした作戦が展開された。
正面は歩兵で攻撃させて敵を引き付け、南から迂回して来たドイツとイタリアの戦車部隊が攻め、包囲や突破を行うと言う作戦だ。これに成功してメルサ・マートルは攻略できました。
しかし、続く7月1日からのエル・アラメインでの戦いは違いました。
エル・アラメインは南側に塩水を多く含むカッターラ低地が広がり、沼地と変わらないこの低地で戦車部隊を動かす事は不可能でした。
そうした事から枢軸軍は正面から戦車を含めた主力で強襲をするものの、攻撃は失敗します。さすがにドイツとイタリアの将兵は連戦に疲れ果て戦えなくなっていました。
こうして最初のエル・アラメインの戦いは枢軸軍の敗北に終わり、エジプトへの進撃が止まりました。
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