この話は私が結婚した20歳代後半のころ、主人のお父さん(義父)に聞いた話です。
戦時中義父は、15歳で旧制中学校(現在の高等学校)に入学したのですが、志願して海軍に入隊したそうです。
海軍航空隊所属で、広島県呉市で終戦を迎えたそうです。
終戦のころ、広島にいたということは・・・。
愛媛県松山海軍航空隊時代
最初に配属になったのは、松山海軍航空隊だったそうです。義父は、昭和3年生まれなので15歳で入隊したということは、昭和18年だったはずです。
義父からは、戦時中の話を何度か聞いているのですが、メモをとっていたわけでもなく、私の記憶もあやふやになっているところもたくさんあります。
松山時代の話で、一番印象的だったのが、米国の攻撃機の空襲を受けたことです。基地上空に現われた攻撃機に機銃掃射され、ぎりぎりのところで、被弾しなかったそうです。これは、志願して入隊したとは言え、やはりかなり怖い出来事だったようです。
広島県呉海軍航空隊時代
呉と言えば、戦艦大和を建造したことで有名な海軍工廠が頭に浮かぶと思います。
今でも呉には、海上自衛隊があり、JR呉駅のすぐそばに大和ミュージアムが整備されるなど、戦艦大和や海軍工廠のことをいろいろと勉強することができます。
義父が配属された海軍航空隊は、この場所からは少し東に行ったところにあったようです。
終戦間近になっていたこのころ、軍隊の物資もかなり不足しており、義父も零戦の訓練を受けてはいたものの、燃料などが不足していたため、実際には、特攻に出撃こともできずその場で終戦を迎えることになったそうです。」
終戦の前には、ご想像のとおり原爆投下がありました。
原爆が投下された広島市の中心部からはかなりの距離があるとはいえ、きのこ雲は見えたそうです。しかし、爆発の光は見えなかったようで、おそらく被爆もしていないだろうと言うことでした。
さいごに
戦争というものは、いつ、どこで命を落としてしまうかわかりません。
ましてや軍隊に所属し、特攻の可能性もあったということは、本当に命があったことは、幸運だったのかもしれません。
義父も間もなく90歳になりますが、せっかく運良く拾ったような命なので、もう少し元気で生きてほしいと思います。
※画像はイメージです。
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