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祖父が沖縄で戦争の過酷さを体験しました

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これは数年前に亡くなった祖父から幼少の頃から昔話で聞かされました。
10代の後半に赤紙が来て、祖父は祖母と祝言を挙げ、直ぐに戦地に派遣されました。

行った先は沖縄でした。

冬の2月頃到着して訓練し、海軍として軍艦で戦争しに行く予定が何故か、航空の方になり零戦に乗るハメに。
しかし、そこで基地は襲撃に遭い、祖父は本土に戻されて数か月後終戦を迎えることになりました。そんな話です。

目次

亡くなった祖父の昔話

私の祖父は、昭和19年の冬、10代後半になった頃遅れて赤紙が来ました。他の友達や知り合いは戦地に旅立つものが多く、祖父はお呼びがかかりませんでした。

一度は召集されたのですが、身体検査で別に異常はなく健康体でしたが、その時見てもらった医師が心臓周辺に異音がすると診断され、見送られて学校に戻り卒業し、煙草のお店に努めてましたが、日本の敗戦が濃くなり配給も難しく暇を出され、丁度消防署が人が足らず募集で採用となり仕事をしてました。

ところが・・・

祖母と知り合い数カ月経った頃赤紙が来たのです。
祖父と祖母はどうなるかわからないのと互いに好きあっていて、親族にも勧められ簡単に祝言を挙げて、その3日後、沖縄へ旅立ちました。祖父と祖母はもう会えないと覚悟を決めたそうです。

祖父は沖縄の基地に配属になり訓練しました。海軍で船に乗り戦争するために準備していました。ですが、祖父を含めて訓練したのはわずか15名くらいしかいなかったそうです。太平洋戦争は日本の敗北ではないかと脳裏に思いながらも、口に出すことなく訓練してました。

訓練が厳しいかと思えば

将校さんは「お前たちは身体を動かして、直ぐ寝て少しでも生き延びれるように祈る。もう訓練は必要などないのだ。本当は・・・」と陰でささやくように言われながら過ごしてました。

ご飯が少ない時があり、時には配給のカンパンだけという事もあったそうです。

沖縄に来て

一か月になろうとした時、突如、祖父と数名の一緒の兵士は呼ばれて、空軍のパイロットが戦死者が多く、零戦に乗る者もいないのでそちらに行ってくれと指示されました。船の基地からそれほど離れていない場所で、すぐさま荷物を纏めて祖父達は行ったそうです。

翌日、到着して基地には数基の零戦と他の飛行機があったそうです。ですが、基地に居た兵士たちは疲労も多く、顔に見えてました。

零戦の美しさ

祖父は初めて見る零戦の美しさとカッコ良さに惹かれ感動したそうです。しかし、もうこれに乗り出撃すれば二度と生きては帰れないと思いました。

その日、祖父は祖母と両親、知り合いに手紙を書いて翌日だしたそうです。届くかわからない手紙には遺言を書いたそうです。

基地で零戦の計器の使い方の勉強や、補給等の作業を行いました。ただ不安もあったそうです。配給される食事の量が日に日に少なくなっている気がしたそうです。それから数日後の事でした。

零戦に乗って訓練という日

この日は雲が少なく快晴でした。祖父は沖縄の太陽の日差しが熱く、まぶしかったそうです。

飛行服に着替えて零戦の所に向かおうとした時でした。突然、米軍の戦闘機数機とB-29がいきなり現れ、基地に機関銃と爆弾を落として行ったそうです。

止まない雨のごとく、連続して絶やすことなく打ちまくっていったそうです。祖父はとにかく伏せてしゃがみました。5分くらいの攻撃で去って行ったそうです。

その5分間が地獄の様に感じました

辺りは炎と異臭に塗れていました。焼けた音と暑さで汗がダラダラ出たそうです。

「生きてる」と思った祖父は目を開けようとしました。
開けましたが、左目から見る視界が真っ赤に見えました。爆弾の破片がこめかみ近くに突き刺さりそこから大量の血が流れ目に入っていたのです。

辺りを見回すと、同じく配属された同期の兵士の同体が半分に吹っ飛んで血だらけの死体や一部の零戦が炎上していたり、そこからの黒い煙が起きていて、地面は油や血が混ざりあって気持ち悪い光景だったそうです。

基地にいた軍医の方が、祖父を見つけてくれて、「怪我してるやないか!死にたくなければついてこい。」と腕を引っ張られて行きました。

祖父は初めて体験する空襲と人の死を目の当たりにし、膝も体もがくがく震えて上手く動けませんでした。が、死にたくない。

生きて帰りたいという思いで自分を奮い立たせ何とか逃げました。

基地近くの森に逃げた

基地近くの森に逃げた祖父は、軍医の人にその場で破片を取ってもらい縫ってもらい血を止めてもらいました。
祖父は死ぬまでこめかみにちょっと黒い跡が残ってました。

その原因が破片でした。応急処置でしたので、包帯も巻きましたが血がにじんで出てくることもあったそうです。

翌日、零戦が空襲で数機しかないのを判断した将校は、祖父の怪我の具合も見て基地から去り本土に戻るように手続きしたそうです。
正直、残って戦えと言われるかビクビクしていたそうですが、戻れることになりホッとしました。

数日後帰る船から、戦闘機が海軍の船のあった基地の方を攻撃。そこから炎や煙が上がったそうです。それをただ見る事しかできなかったそうです。

祖父はその後・・・

怪我の治療もあり、東京へ一旦来ましたが、物資の不足と手術もあり、長野県の松本の方に行き、その近くの病院で手術と治療をしました。
松本城の付近の病院関係者の知り合いの家にご厄介になり、そこで指令がくるまで掃除や洗濯等して過ごしました。

ですが、指令はこないでいつの間にか8月になろうとしていました。

そして終戦

8月15日。

陸軍の少佐の方が来て、ラジオを聞けと指示を受けてそこで天皇陛下の終戦を聞きました。
祖父は戦争が終わったと安堵したそうです。

「直ぐに家族の所に戻れ。それが一番のお前の、家族の幸せだ!これからは戦争のない時代を互いに生きよう。」とわずかのお金と少しの米を名も知らない少佐さんから貰い、支度をし直ぐ地元に戻りました。

そんな話をしていました

祖父は小さいころから良く私を捕まえて、そんな話をしていました。
「戦争は怖いし、恐ろしい物なんだ。良いことはない。」とよく言ってました。

今は亡くなった祖父ですが、もし、太平洋戦争で出陣し船や飛行機で戦って命を落としていれば、今の私も存在していなかったのかもしれません。

多数の戦死者、尊い命が失われた太平洋戦争。祖父の話を聞いて今の年になり、戦争の恐ろしさを実感しています。

誰かが苦しみ、悲しむ。それだけは避けねばならないと思います。

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