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軍需工場にいた祖父と戦艦に乗っていた祖父

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この話は、私の父方の祖父と母方の祖父の戦争体験です。
私のふたりのおじいちゃんが体験した、日本の片隅での太平洋戦争。

目次

父方の祖父の話

おじいちゃん、現在100歳。

先日、足の痛みから体が全く動かせなくなり救急車を呼びました。ストレッチャーに乗せられるその時、あまりの痛みにでしょうか「わしは戦争にいっとった!その時より今のが難儀だ。戦争に行った人をそんな風にしちゃあいかん!!」と絶叫。

認知症も少し入っていますが、それでもなお記憶に残る戦争。小学校から戦争体験講和を依頼されても頑なに拒否していたおじいちゃん。今はあまり語られませんが、私が小さかったころ聞いたお話です。

おじいちゃんの戦争

おじいちゃんは、軍需工場に行っていたらしい。住んでいるところから二つ隣の市、毎日小さな電車で通っていました。

ある日、その電車と工場が爆撃されたそうです。たまたま、その日は別の工場に派遣されていたおじいちゃんは難を逃れました。東京や大阪から遠いこの場所でもいよいよ戦争か・・・と肝を冷やしたそうです。

戦争が激化してきたころ、おじいちゃんは中国へ出征することになりました。この話はほとんど教えてもらえませんでした。よほどつらかったのでしょうか?思い出したくないのでしょうか?それとも、小さかった私には聞かせられないものだったのでしょうか?

ちなみに、おばあちゃんの唯一の男兄弟である弟さんは、シベリアに派兵され病気になって亡くなったそうです。だからおばあちゃんがおじいちゃんを養子にもらってこの家を継ぎました。

おばあちゃんの弟さんの遺影は、軍服を着て暖かそうな帽子をかぶっている姿です。こんな身近なところにも戦争がありました。

呉にて

母方のおじいちゃんの話。

もうすでに他界していますが、存命中はいろいろと教えてくれました。戦争中の国債も残っていて、見せてと言った私に切り取って一枚くれました。
おじいちゃんは海軍の船乗りで、勲章をつけ刀を腰に差し、船を指揮していた・・・そんな話を幾度となく聞きました。

広島の呉から船に乗り、いろいろな場所へ出向いて行ったそうです。

そんな戦争真っただ中のある時、太平洋上でおじいちゃんの乗っていた船が攻撃され破損個所から水が入り傾く船。
船員を脱出させ、自分は船に残ると言い張り、おじいちゃんは船に残ったそうです。勇ましく死んでやろうと甲板に立ったと聞きました。
しかし気づいたら、おじいちゃんはたらいの中にいたそうです。きっと誰かに助けられたのでしょう。不思議だったと言っていました。

私の母は戦後生まれです。

もしこの時おじいちゃんが船と運命を共にしていたら、私は今この世にいません。
私が小学生の時におじいちゃんはなくなりました。最後まで一人でなんでもしてしまう強い人でした。

母の実家には、おじいちゃんの遺影があります。呉の港で船をバックに、日章旗の前で胸を張っているおじいちゃん。
私の知っているおじいちゃんとは少し違って、きりっとりりしい軍人の顔のおじいちゃんです。

おわりに

今は自分の子が、戦争について本を読んだり調べたりしています。
私が彼に語れることは、今ここに書いてきたことくらいしかありません。

それでも、戦争は日本で起こっていた、身近にあったということは伝わるはずです。どうか、二度と戦争が起こりませんように。

※画像はイメージです。

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