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太平洋戦争中の一家の暮らし

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子供のころから母に聞いた、太平洋戦争中の一家の暮らしの話です。
母はときどき、思い出したかのように戦争中の暮らしについて話をします。

母はすぐ上の兄と共に疎開し、母の母、つまり祖母は食料調達に苦労し、一番上の兄は兵隊に取られ・・・というように一家の暮らしは大変だったそうです。

目次

疎開の暮らし

戦争末期のころ、母は小学生ですぐ上の兄と一緒に田舎に縁故疎開に行ったそうです。

疎開先の家では、「火垂るの墓」で描かれたように歓迎されない空気で、その家の子と差別されて食事が少なかったりしたそうです。
ある日、夜に外を見たら、実家のあたりの空が空襲で真っ赤になっていて、不安な気持ちで兄と一緒に眺めていたそうです。

配給では足りず

戦争中は食料も配給制になり、それだけでは足りず、母の母(祖母)が田舎の農家まで行って、着物などと交換し食料を調達したそうです。

母の父(祖父)は、当時には珍しいおしゃれな人で高価な衣服をたくさん持っていたそうですが、その多くを食料と交換したそうです。
戦争中は食料を持っている農家が威張っていて、高価な着物もわずかの食料にしか交換してくれなかったと聞きます。

田舎の人からすると

田舎の人が高い着物を少しの食料としか交換してくれなかったという話は昔から聞いていたのですが、最近ネットで農家の側の意見を目にしました。
都会の人が派手な着物を持ってきて、自分は欲しくない(田舎では着る機会がない、もしくは派手は着物は白い目で見られる)のだが、状況が状況なので仕方なく少しの食料と交換した・・・という内容でした。

どちらの意見も一理あり、どちらが正しいとかはないと感じましたが、しいて言えば、そんなに食料不足になっても戦争を続けたのが原因だと思います。

兄たち

母の一番上の兄は、兵隊に取られましたが、生きて帰ってこれました。
しかしマラリアに感染していたため、高熱を出し痙攣を起こし、まさに九死に一生を得たのでした。

二番目の兄は、高校時代に「学校始まって以来の秀才」と言われたそうです。
しかし戦争中に母の父(祖父)が病気で亡くなり、家計に余裕がなかったため、大学進学をあきらめて就職したそうです。

戦争によって、普通に暮らしている家庭にも消えない影が残るものだと思いました。

※画像はイメージです

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