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父のトラウマ、ペットと家とのお別れ。

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この話は、わたしが父から聞いた話です。
父は太平洋戦争中当時、小学生でしたが呉で比較的余裕のある生活をしていました。
そんな父が戦争で負った心の傷のお話です。

目次

軍港都市呉での出来事

呉といえばあの世界最大の軍艦「大和」を建造した、当時は東洋一の軍港です。

祖父は海軍と取引をする会社を経営していたために羽振りはよかったそうで、父は祖父を除くと女系家族唯一の男の子として、大事に育てられていました。

太平洋戦争末期に、家族が自分によそよそしく接してくる日があったそうです。
どうしたのかなといぶかしがりながら登校し、その日帰宅すると「今日は鍋だよ」と言われました。

珍しく鳥鍋であったそうで妹たちが美味しそうに食べていましたが、嫌な予感がして鳥小屋に行くと、自分のペットの鶏がいなくなっていたそうです。
嘆き悲しんだのはいうまでもなく、繊細な父はいまでもチキンを食べません。

比較的余裕のある家でも配給が減り、育ち盛りの子供たちのための苦渋の決断でした。しかし、父にとってはいまだに幼少期からのトラウマです。

呉の大空襲で見えた人間の器

1945年7月1日、アメリカ軍による呉市街地への空襲で家が焼かれ、防空壕のおかげで一家は助かったものの、住むところがなくなり、小屋浦という同じ海沿いにある田舎の父の弟一家を頼って、住まわせてもらうことになりました。

ただでさえ配給も制限されて、間借りの苦しい生活です。
小学校にも通うことはできずに肩身の狭い思いをしながら、体の弱い祖母や父の妹たちと貸してもらった離れで、雨露をしのぐ生活を送っていました。

祖父は相変わらず呉での仕事があり、ときおり海軍から手に入れた缶詰めなどを持ってきますが、日常的には水のようなお粥を分けていただく生活が続いていました。

ある夜、トイレを借りるのに母屋に寄ったところ、義理の叔母の声が聞こえてきました。
「あの人たち、いつまでいるの。うちも余裕がないんだから、できるだけ早く出て行ってもらってくださいね」

子供心になんと冷たい人なのかと思ったそうです。
日ごろは愛想がよいだけに、裏はそんなことを考えていたのか・・・とショックは大きかったそうです。

いま客観的に考えれば、自分たちの生活だけで精いっぱいのところで、そんな事を口に出てしまうのもやむを得ない気もします。
しかし、家を焼かれ学校にも通えず、水のようなお粥をすすっている少年には、一生消えない心の傷になってしまい、終生父はその義母を心の底から信頼することはなかったようです。

父は基本的に人の好い性格ですが、戦時の記憶ばかりは消せません。
戦争はふつうは善良な人でも、心までも変えてしまう。こんなつらい世界が二度とこないことを願います。

※写真はイメージです。

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