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国家存亡の危機のときこそ農家

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これは20年以上前に、今は亡き父から聞いた太平洋戦争当時の話です。

目次

父親の大東亜戦争時の記憶

私の父は、今生きていれば86歳(2020年)ですから、大東亜戦争時は小学生でした。
父は埼玉県の本庄市の農家の生まれなので、東京からはだいぶ離れていたのにもかかわらず、昭和20年の東京大空襲時には東京方面の空が真夜中でもずっと真っ赤に輝いていた聞いて、空襲の激しさを思い知らされます。

時々埼玉の田舎にまでアメリカ軍の戦闘機が何度かやってきて、人影を見ると見境なく機銃掃射をしてきたそうです。
父も危うく犠牲になるところだった事が何回もあったようです。

戦争末期

東京の多くの人が餓死寸前だったようで、農家である父の実家には東京から食料を買いに(場合によっては貰いに)来る人が絶えなかったそうです。
当時の父の実家は埼玉県でも数本の指に入るほどの大きな農家だったので、本当に悲惨な状況の人々になんとか食料を分けたそうです。
私はこの話を聞いてから国が亡びるか否かという極限の状況下では、食物が自給自足できるので、一番強い職業は農家であると確信するようになりました。

これは、これからの世の中においても変わらない真実だと思います。

終戦直後

話は変わりますが、今度は父から聞いた私のおじいさんの話です。

おじいさんは大変気が優しい人で、大きな農家と言っても戦争中、ほとんどただ同然で食料を東京の人たちに配ってしまい、現金がなくなってしまいました。
何しろ父を含めて子供が8人もいたのです。

そのため終戦直後、おじいさんはリヤカーいっぱいに野菜や米などの食料を積んで埼玉から東京まで歩いて食料を売りに行ったそうです。
しかし東京に着いてみると、あまりにも悲惨な状況で食料を売るどころの騒ぎではなかったそうです。

瓦礫と化した街にいたのは、ぼろぼろの服を着てガリガリで今にも飢え死にしそうな人たちばかりで、おじいさんのリヤカーの食料をみると大勢が群がってきて「どうか少しでもいいので恵んでください。」と言われてると、気のいいおじいさんは持ってきた食料を、すべてただで分け与えたそうです。

そしてトボトボと埼玉まで空のリヤカーを引いてまた歩いて帰りました。
おばあさんは、空のリヤカーを見て最初は全部売れたのだと喜んだそうですが、おじいさんが全部ただで配ったという話を聞いて「いったい私たちの生活はどうなるの」と怒ったそうです。

しかし、私はそんなおじいさんを心から誇りに思っています。

※画像はイメージです。

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